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普段からケアマネジャーさんにお会いする機会が多いのですが、「“ももたろう”さんの所のお弁当は美味しいんですってね」と、よく言われます。本当にそうです。季節季節の食材を取りいれたボリューム満点のお弁当で、あのお値段。他では出来ないと思います。ご家族やケアマネジャーさん、どうぞ召し上がりに来て下さい。ご家族やご利用者様とのひとときを “ももたろう” でお過ごしください。お電話くださればいつでも大丈夫です。
自由気ままに生きるには
「今日は何を食べようかしら?」毎日の夕食に心を煩わせる。一昨年ぐらいから自宅で調理するのが億劫になり、家では作らなくなった。今は運動も兼ね、毎日の夕食と、時には昼食も外へ食べに行っている。若いころは79kg もあり、15 号の服を着ていたのが嘘のよう。今は41kgしかなく、周りからも食べるように勧められている。昔と違い、甘いものも欲しくなくなった。雪の日も、暑い夏の日も、「がまん!がまん!」と自分に言い聞かせ、夕食は必ず外へ食べに行っている。私は今85 歳。一歳年上の主人は76 歳で亡くなり、以来一戸建てに独りで暮らしている。
生まれは、東京港区芝。サラリーマン家庭で普通の生活をしていた。子供のころは近くの日比谷公園へ、鯉を捕まえに行くほどのおてんばだった。主人とは、お婆さんからの紹介で知り合った。「九州の人は、真面目だから結婚しなさい。幸せにしてくれるから」と、二十代半ばで結婚。確かに困ったことはなかったが、九州男児と下町育ち、よくケンカもした。主人はトヨタ自動車の販売会社で働き、後に社長になった。結婚後に港区の神谷町で所帯を持ち、長男を産んだが身体の弱い子だった。愛育病院の先生から「空気の良い所で育てなさい」と府中を紹介され、現在の家に越してきた。何しろ都心のど真ん中で過ごした後の府中市。1年位は「こんなところで暮らすのか」と毎日泣いていた。都心に比べて気温は4℃も低く、手にはアカギレができた。炊事や洗濯は得意ではなかったので、九州からお手伝いさんを呼び、数年間手伝ってもらった。
次男は府中で産んだ。子供たちは私立の幼稚園に通わせ、送り迎えのために自動車免許を取得した。ほとんど女性が自動車を運転しない時代に免許を取得し、車の少ないガラガラの甲州街道を運転した。しかし「お母さんの運転は怖い」と息子に泣かれたため、車は運転しなくなった。
主人は仕事が忙しく、なかなか帰ってこない生活が続いた。子供たちは近くの競馬場で虫やドングリを拾って来たりと、自然の中でのびのびと育った。特に「勉強しろ」とは言わなかったが、二人とも有名大学へ進学し、立派に巣立っていった。私はというと、息子たちが学校に出かけた後、ゴルフやボーリング、習い事に精を出した。一番はまったのは40 代から始め、十年以上続けたゴルフ。あまり上達しなかったが、後に息子やお嫁さんとも行けたのが楽しい思い出。
今の楽しみは、子供の幼稚園時代のママ友と会うこと。50 年来の付き合いになる5 人が、月に1回、聖蹟桜ヶ丘の友人宅に集う。夜の12 時頃まで他愛のない話をする、一番楽しい時間だ。
二人の息子たちは、もうすぐ定年を迎える。二人とも比較的近くで暮らしており、土曜日には一緒に昼食を摂る。「転んだりしたら心配だから、そろそろ施設に入ったら?」と言われるが、今の生活が自由気ままで良い。「もうしばらくそっとしておいて」と言っている。確かにご近所さんは女性の一人住まいの方が多くなり、一番親しくしていた近所の奥様も、近くの有料老人ホームに入ってしまった。何度か会いに行ったが、自由のないベッド中心の生活を目の当たりにし、今の生活が続けられることに感謝している。
今の私の生活は、週3 回の“ももたろう” と、伊勢丹で成り立っている。