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『夜桜を見ながら懇親会』は、満開の桜並木を通り、ルミエール府中にて美味しいお弁当を囲んで行いました。スタッフを含め 36 名が参加し、楽しい会となりました。全員が “ももたろう”に関わる方々ですので、多面的なお話しに花が咲きました。“デイと自宅での違 い” や “デ イ と ケ ア と の 良 い 連 携”などの気付きを頂けたかと思います。最後は人形劇をご覧いただき、『ふるさと』を合唱して散会となりました。
日の丸弁当
戦時中の女学校生活。お昼の弁当は、白米に梅干1つだけの“日の丸弁当” と決められていた。先生が昼ご飯中見回りに来て、梅干以外の具が入っていると、直ぐに取り上げられた。実際、ご飯の下に見えないように母が入れてくれたおかずは、匂いでわかったのか取り上げられたこともあった。その時は、下校まで食べる事を許されず、家に持ち帰った。そんな食事での学校で生活。だから今、骨そしょう症になり、薬を飲んでいるのかもしれない。梅干弁当の事は、思い出したくもないが、いつまでも記憶に残っている。
女学校は、池袋にある豊島高等女学校。もうひとつ忘れられない事は、女子生徒は長いなぎなたを持って電車通学をし、男子生徒は中学生でも鉄砲を肩から担いで通学した時期があった。「15の乙女はなぎなたを持ち、コートを着てはいけない」と。どんなに寒い日でも、雪の日でも制服だけで通学した。戦時中にも関わらず、女学校時代は熱心に勉強を教えてもらった。特にこの時代、英語は敵性語として排除された時代だった。教師からは「学校以外で英語を喋ってはいけない」と厳しく言われたが、英語の教育も受けられた。
女学校卒業後は大学に行きたいと父に言ったが、「これ以上、女が勉強をすると生意気になる」と、行かせては貰えなかった。本当は教師になり、教育現場に立ちたかった。結局就職せず、仕事に就くことはなかった。
職業軍人だった厳しい父は、東郷平八郎と同じ艦で職務に就いていたことを誇りにしていた。山形県南原村一帯は全部父の土地であったが、戦後の農地改革で全部小作人の土地になった。ただ、山だけは一人娘である私の名前で残っている。退役後の父は、浅草で皮の鞄を作って売る仕事を始めた。夫になる人は、父の元で一緒に働いていた人。信頼も厚かったが、背が小さい。「背が小さいから嫌!」と父に言ったが、父から「結婚しろ!」の一喝で結婚することになった。一緒に歩くのが嫌だったが、大人しく仕事の出来る人だった。浅草で新婚生活が始まり、子供は娘が二人できた。この時も「男を産まず、女ばかり産んで!」と父に怒鳴られたが、こればかりはどうしようもない。主人の仕事は順調で、不自由なく生活ができた。
府中には20 年ほど前に越してきて、ゆっくりと老後の生活を送っていた。夫は10 年前に、80歳で亡くなった。亡くなる間際に「もう80 歳だから、自動車は運転しないように」という言葉を残して。私はそれまで自動車を運転していたが、主人の言葉もあり80 歳で免許を返納した。背中は曲がって入るけど、足は丈夫。どこへでも歩いて行ける。現在は、娘夫婦と孫2 人の5 人家族。殆ど毎日のように外へ出ていて、“デイサービスももたろう” へは、週2 日行っている。午後『百人一首』を詠むと、皆さんから「声が伸び伸びしていて、いい声で聞きやすい」と、褒めてもらっている。現在90 歳、背中は曲がっているけれど、毎日元気に生活している。
私の自慢の一つは、孫の身長が180cm あること。