▲ 上記画像をクリックするとPDFファイルが表示されます。


今冬は今までにない寒さです。インフルエンザの勢いも例年に無く早く、“ももたろう” でもインフルエンザの方が数人おられました。デイでインフルエンザの疑いがあるかどうかの目安は、「37℃以上の熱」「食欲がない」「足元がおぼつかない」を基準にしています。病院での検査もすぐに出来ますので、早めに診てもらうことをお勧めします。

口は幸せの元

 朝、バイタルチェックの時「情熱いっぱいなのに、熱が上がらないのね」お弁当箱の洗い物をお願いすると「仕事があって良かった。失業するかと心配していた」トイレにお誘いすると「私の蛇口を開けてこようかな」お迎えの車に乗り込むと「さあ、このまま箱根へ行きましょう」と周囲が笑いの渦に。この方の良さは、決して他人の悪口や陰口を言わないこと。「こんなにユーモアがある方を見たことが無い」と言われるほど機知に富んだ会話をされる80 歳の女性。別名「ユーモアの女王」。

 “ユーモアの女王”だなんて!ホント上手なんだから。私の生まれは山梨県大月市、5人兄弟の4番目。おっちょこちょいだが、明るい性格だったと思う。父は路線設備関係の会社に勤め、戦時中は国内の防衛に就き、代わりに都会の親戚が疎開してきた。田舎によくある大きな家造りで、お蚕さんの小屋や田畑があった為、寝食に困る事はなかった。私達兄弟も小学生の時から田畑の手入れや草むしりなどの仕事を手伝っていて、「どうしたら早く、綺麗に出来るか」といつも考えながら仕事をしていた。
 母は肝っ玉の大きい人で、近所の方への気配りを忘れず、困っている人が居ると手を差し伸べていた。一番上の兄は労働監督署に勤める役人として、深夜の織物工場を周り、長時間労働や違法労働の取り締まりをしていた。お堅い仕事だが兄も人に好かれる人格者で、やり手だった。兄弟で商店を立ち上げることになると、あっさり監督署の仕事を辞め、築地へ毎朝仕入れに行くようになった。私も“真面目だけでは人は寄って来ない” と言い聞かされ、常にユーモアを忘れずにお客様をもてなしていた。一般的に女であれば人の噂話が大好きなものだが、私も兄に相当鍛えられた。商売は順調にいき、いくつもの料理店に食材を卸した。その後、兄は若くして市議会議員に当選し、永らく議員人生を歩んだ。
 結婚は、近所の知人から「良いからうちに来てよ」と半ば無理やり引き合わされ、あっさり結婚した。夫は当時大学生で、私の一つ年下だったため、近所と言えど面識はほとんど無かった。舅は国鉄職員で、夫婦揃ってお堅い方だった。一人息子の夫は大変可愛がられて育ったようで、嫁ぎ先には美人で口の立つ小姑が4 人いた。意地悪されたりしたことは無かったが、“大変立派” な方々であるため色々な思いもした。この環境に早く慣れようと、必死に我慢した事はいくつもある。近所のため父や母が毎日のように様子を見に来てくれ、私も事あるごとに実家へ行き、一目顔を見ては肩の力が抜けたのを覚えている。
 結婚後しばらくして、プロパンガスの販売店を主人と共に開業。長女を背中におんぶして『危険物取扱者』の試験勉強を必死にし、夫婦そろって合格。当時プロパンガスの事故が相次いでいたため、試験はかなり難しく、合格した時は本当に嬉しかった。夫や姑は、真面目過ぎて商売には向いていなかった。姑は「そんなに商品に触らないでください。帰ってください」と平気で言ってしまう人だったため、私が一生懸命お客様に接した。兄の教えもあり商売は順調、プロパンガスの販売以外に乾物や魚・野菜の販売もした。又、お葬式の『果物かご』や『折』と言う豪華弁当も作った。出来ないと言うのが嫌で、「人にできる事は私にも出来る」という信念があった。全部見様見真似だったが、何でも考えながらやり遂げた。魚をさばいて刺身を作るのもお手の物。
 考えてみたら、兄は市議会議員、母も大月市婦人会の役員を何期も務め、人のために尽くした。戦争末期に志願しようとする兄を、必死に止めたのは母だった。人望も厚く、常に誰かを家に上げていた。何かあると周囲の方が必ず助けてくれ、困る事は無かった。私にもその血が流れているのか、誰とでも話をして、笑顔にするのが好き。先日、長く入院していた方の手をマッサージしながら話を聞いた。段々とその方に表情が戻り、笑顔も出てくるようになった時は大変嬉しかった。人の笑顔を見るのが嬉しいし、幸せ。
 府中市の娘の所へ来て、かれこれ20 年になる。争い事は無く、今も幸せに生活している。揉め事が起きないように気を付け、何か起きてしまったら「悪かったのは私かも」と考えるようにしている。いつ何時お世話になるかも分からないからこそ、敵は作りたくない。人生楽しく面白く、それが私のモットー。
 やり方ひとつでどうにでもなる、それが人生。