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猛暑の毎日。他のデイでは気温 32度を越えると、屋外の活動は控えると聞きます。ももたろうのアウトドアは、どんなに雨が降ろうが、気温が高かろうが外出しています。そんな日に行くのは大型スーパー。ペットショップを見たり、目新しい品物を探しに店内を歩いていると、1200歩は優に歩きます。飲み物を飲むベンチも有り夏場には最高です。

太く 長く コシのある

 生まれは両親が一時的に住んでいた北海道。だが、生まれて直ぐに中野に移ったため北海道の思い出はない。姉が3人おり、4人姉妹の末っ子として元気な幼少期を過ごした。当時流行っていたドッジボールを盛んにしていた小学5年生の頃、急に坐骨神経痛を患い学校に行けない日が続いてしまった。勉強する機会が減ったため進学は諦め、小学校卒業後、尋常高等小学校に2年間通い、卒業後は新宿・三越に職を得た。とはいえ、14 歳そこそこの娘を売り場に出してもらえる訳はなく、最初の3 年間はレストランのウエイトレスをした。17 歳になり、呉服売り場を任された。大変な時代ではあったが、友達も出来、職場は楽しかった。姉は結婚や、師範学校を出て就職したのを機に家を離れていった。そんなある日、朝起きたら母が家に居なかった。どうしたものかと気を揉んでいると、産婦人科へ行ったと聞いた。私が19 歳にして、まさか弟が急に生まれるとは思ってもみなかった。当時両親は、中野でうどんの製造販売を生業にしており、誰も母が妊娠しているとは思っていなかった。3番目の姉も両親の仕事を手伝っていたため、子守をする人手がおらず、私が仕事を辞め子守をさせられた。子守は好きでなかったので、子守の合間に以前から好きだった編み物を夢中でした。ある日、目を離した隙に弟は2階から階段を転げ落ちた。この時にフッと「弟が頭を打っておかしな子になったら、私は一生この子の面倒を見なくてはいけない」と血の気が引いたが、当の本人は泣き喚くでもなくケロッとしていた。両親にも言わないで秘密にしていたこの話は、今初めて人に言った。75 年間秘密にしていた事になるが、幸い弟は今も元気にしている。
 当時戦争中だったが、両親が経営する製麺所は軍へも納品していたため、材料は不足なく届いていた。困窮する時代にも、うどんと物々交換で食べ物が手に入り、特に困る事は無かった。だが、働いていた男性が次々と出兵していき、事業の継続ができなくなった。これを機に、一家で親戚の居た府中へ移り住んだ。引っ越してすぐに、「ここで働いていれば動員されずに済む」と、稲城にあった陸軍の火工廠(かこうしょう)へ姉と共に就職した。火工廠では火薬を加工して砲弾などの武器を製造・貯蔵していた。そこで庶務の仕事に就き、工員たち2000 名の功績名簿を管理していた。就職して1年で終戦を迎え、慌ただしく残務整理をしていると、早々にGHQ が接収に来た。最初から火工廠を接収するつもりで、空爆はしなかったのだろう。
 結婚は戦後すぐに、火工廠で働いていた7歳年上の男性と。漆で食器等を作り、漆の絵が二科展で入選したことも有る芸術家。世の中が混乱していたので結婚式は挙げなかった。子供は女の子が2人。手袋、靴下等全て手編みし、ワンピースやブラウスも全部手作り。家庭訪問で先生から「娘さんの洋服が素敵で、今日はどんな洋服を着てくるかと、毎日楽しみにしています」と言われ、とても嬉しかった。その後も80歳過ぎまで、次女と一緒にパッチワークの教室に通っていた。
 現在も二人の娘は近所に住んでいて、休みの日は家に来てゴミ出しをしてくれたり、冷蔵庫を見て食べ物を補充してくれている。行く前はとても嫌だったが、娘の勧めでデイサービスに通うようになり、今では “デイサービスももたろう” に週5日間通い、行かない日の1日は“ケアももたろう”から顔なじみのヘルパーさんが家に来てくれる。毎日が大変楽しく、昼食のお弁当も美味しく全部いただいている。午後は皆さんと「百人一首」をし、詠み手は私。皆さんから「朗々として良い声だ」と、褒められる。週2回入浴をお願いしているが、本当に頭の先から足の爪まで丁寧に気持良くしてもらって「こんなにしてもらっては罰が当たる」と、いつも言って感謝している。こんなに幸せでいいのかと思う。現在96歳。皆さんから「若いねー、とても96歳には見えないわ」と、よく言われている。自分自身、年取っているとは思わないし、病院とは縁遠い生活ができている事に感謝。これからも今の生活が長く続けられれば最高!