▲ 上記画像をクリックするとPDFファイルが表示されます。
何人もボランティアの方々にお世話になっていますが、皆さま一様に「ここに来るとパワーを貰える。私達よりずっと年上なのに年齢を感じさせない熱心さと集中力には本当に頭が下がる」と言って下さいます。どの活動にも 1 時間以上お喋りもせず、熱心に取り組まれます。是非、いつでも見学にいらして下さい。ご連絡頂ければ昼食もご用意できます。
大切な人
生まれは、千葉県船橋市。母に体質が似たのか、若い時から「風が吹いたら飛ばされそう」とよく言われた。父母と3人、幼少の頃に千駄ヶ谷の一軒家へ越したが、母は虚弱から入院がちになり、父とお手伝いさんの3人で生活していた。戦争が始まり、いよいよ戦争末期になると父は内地へ出兵することになり、その間、私は新宿・淀橋区に住む親戚に預けられた。そこでは毎日のように空襲にあい、燃えやすい衣類は土の中に埋めて保管した。ある朝、家の目の前に火の手が迫り、住んでいた家にも火が移った。地区全体が焼ける大火事で、焼け跡から衣類を掘り出した。世田谷の代田に、出兵中の軍人宅を借りることができ、移り住んだ。代田に引っ越した頃、母は虚弱体質と腸の病気が原因で、入院中の病院で亡くなった。悲しみに暮れる代田でも無慈悲な空襲は続き、代田の家も焼けてしまった。間もなく終戦を迎え、父と共に調布へ移り住んだ。父は母を想っていたが、「女手が無いと苦労するだろう」と再婚を決意し、私が中学生ぐらいの時に妹と弟が生まれた。新しい母も優しく、上手くいってはいた。しかし、亡くなった母と重なるのか、父が私を溺愛するので「このままでいいのか?」と、悩みもした。母にとってはやりにくいだろうと子供心に考えていた。
父は、パンの中村屋に勤め、経理を担当していた。隣の家に住む優しいお姉さんと親しくなり、よく遊びに来てくれた。父の勧めでそのお姉さんも中村屋に勤めたほど、家族ぐるみの付き合いとなっていった。そのお姉さんには、早稲田大学に通う弟さんがいた。早慶戦や学園祭、音楽祭に誘われ、よく一緒に出掛けて行った。その時、女学生と大学生。日頃、優しく穏やかな父だが、私が彼と出掛けようとすると、とたんに機嫌が悪くなった。彼と最寄りの駅に降り立つと、改札に父の姿を見つけた。きっと何時間も待っていたその顔は、少し怒っているようにも見えた。今のように携帯電話が無い時代、彼と外出する時は、絶えず私の方から父に電話をかけて、居場所を伝えるようになった。短期大学を卒業し、体育大学付属の幼稚園に勤め始めた。体育に力を入れていたため、活発な子供達に囲まれながら7 年間勤め、結婚で退職した。結婚に関して、もう父は何も言わなかった。結婚後は、実家の地続きに家を建ててもらい、専業主婦になった。相変わらず早慶戦や、主人の好きな観劇にもよく出かけて行った。父も良く知る人と結婚し、安心したと思う。子供は男の子と女の子の二人を授かる。主人は有楽町にあるスーパーの立ち上げから関わり、後に重役となった。
そうこうしているうちに父は定年を迎え、平日の時間を持て余すようになった。母からも頼まれ、私が父を新しく出来た動物園や水族館に連れ出した。二人で電車に乗って、色々な所へ行った。大好きな父との時間は、ゆっくりと、幸せに流れて行った。その父も80歳位に亡くなり、健康だった母も90歳位で亡くなるまで私も面倒を見た。主人は70歳過ぎに病気で亡くなり、私も今では89歳になった。妹や弟とは良い関係が続いていて、今もよく行き来している。調布の家には妹が住んでいて、弟も調布市内に住んでいる。
今は娘に呼ばれ、府中で二人暮らしをしている。家事の殆どを娘がしてくれ、腸に良いからと、キンピラゴボウを作ってくれる。実は3年前に腹部の病気をして、何度か入退院を繰り返した。去年、また腸閉塞になってからは、家で過ごすことが一段と多くなった。昔から好きな編み物もするが、大部分はテレビを観て過ごす日々。食事も欲しくなくなり、体重は24キロを下回った。そんな私を心配した娘の勧めもあって、昨年の12月から“デイサービス ももたろう” に通っている。火曜日の押絵、木曜日の習字、金曜日のアウトドアやフラダンス等、毎日違った活動が楽しい。特に押絵が大好き。家でテレビばかり見ている人生なんてつまらない。お昼のお弁当も美味しく、仲間とのお喋りしながらだとよく食べられる。
今の生活には大変満足している。元気にデイに来れ、一日楽しく過ごせていることが一番。先日、毎年祝ってもらう誕生会に、娘・友人・孫4人・お嫁さんの7人が集まり祝ってくれた。愛犬を亡くしたばかりだったので、とても嬉しかった。これからも家族や友人との絆を大切にし、楽しく生活していきたい。