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オカリナ演奏の5名をはじめ、延べ18 名のボランティアの方々が、楽しく充実した時間を作ってくださいます。つくづく感じることは、皆様大変魅力的な方ばかりで、この仕事をしているからこそ出会えるような方々です。ボランティアをしているから魅力的になるのか、魅力的な方がボランティアをされるのかと、感じる日々です。

食が繋ぐ、人と人

 生まれは、『北上夜曲』の舞台になった岩手県北上市。高校時代には全てのノートの最後ページに『北上夜曲』の歌詞を書き、休み時間になるといつもみんなで歌っていた。今でも懐かしい、思い出の曲。兄弟は6人。私は一番上の長女で、次の次女は5 歳離れている。もともと父は東北電力の変電所に勤めていたが、戦争が始まる数年前、市内に国産軽銀という軍需工場が出来ると、そちらに勤めるようになった。市内には他にも軍需工場や、陸軍の飛行場があり、空襲の被害を抑えるため、それらの建物の周り100 メートルほどの住宅は立ち退きさせられ、取り壊されていった。
 そして小学校2年の時、大東亜戦争が始まった。布のランドセルを背負って学校へ通い、教室の椅子に座ったとたん、空襲警報が鳴った。学校にも防空壕はあったが、規模が小さいため、家の近くの防空壕へ避難するよう急いで各家庭へ帰されたものだ。母は、祖母が経営していた食堂を引き継ぎ、戦争中も営業を続けた。食堂用に食材が配給され、農家の親類の助けもあり、食材に困窮するほどではなかったが、人を雇っていた記憶は無く、母はただただ多忙だった。戦争中は、うどんの代金をお米で支払うお客さんもいるような時代。私は小学校高学年になると、忙しい時期は母の食堂を手伝うために、学校を早退させてもらった。だから、小学校時代は余り勉強をした気がしない。疎開はしなかったが、戦争末期の数週間だけ、父の故郷である岩手県の奥地に一家で移り住んだ。終戦間際、父の勤める国産軽銀は激しく空爆され焼け野原になったが、家族はみな無事だった。終戦後、父は女学校の事務職に転職し、定年過ぎまで勤めた。
 自宅の食事作りは私の仕事で、家族8人分の食事を作っていた。朝食も目玉焼きを8つ。冬の間は、雪で通学が難しくなる高校生を毎年5人位、2階に下宿させていた、彼らの食事作りも私の仕事。手の込んだ料理は作れないが、カレーライスや野菜炒め、煮物などを作っていた。この頃から、料理は苦にならなかった。高校では共学になり、放送部に入った。男子がスイッチや機械の操作をし、女子がアナウンサー役として活躍した。後の主人になる人は、放送部の1年年上の先輩。高校を卒業すると、私は病院の事務職として職を得たが、先輩は東京の電話器を作る会社に就職していた。手紙や年賀状を交わす程度の関係が続いたが、23 ~ 24 才頃だろうか、先輩が仙台へ転勤になり、東北を営業で回るようになると、自宅へ時々寄ってくれるようになった。そこからお付き合いが始まり、仙台で結婚。子供は3人授かり、その後、久我山の社宅へ。社宅は数年後、地方の学生を住まわすためにと、立ち退きを求められ、30 歳過ぎで現在の中河原の家に移り住む事となった。母は苦労が祟ったのか、この頃には亡くなっていた。皆が寝静まった夜、甘いものが好きな母と一緒にお菓子をつまんだのが思い出。
 今は夫婦2人での生活だが、寂しくは無い。近くに次女夫婦と3人の孫も住んでいる。お勤めもしているので、私が夕食を作りに出かけて行き、孫たちに食べさせて帰ってくる生活を何年も続けた。その孫たちは、今や高3、中1、小4になった。一番下の孫は、毎朝登校前に家へ寄ってくれ「おばあちゃん!」と声を掛けてくれる。毎年1月2日の我が家には、長女・次女・長男一家の13 名が集まってくれる。この時の料理は、煮しめや黒豆等は、殆ど私が作っている。1年の一番の楽しみ。主人も優しく、じっとしていられない性格で、お勝手の手伝いもしてくれる。以前は借りた畑で、小松菜などの野菜を、食べきれないほど作っていた。今の楽しみは、二人で多摩川を散歩したり、テレビを観たり。“ももたろう” に通うようになってまだ2ヶ月だが、デイに行く朝は必ず家の前で見送ってくれる。私は87歳、主人は88歳。私の6人兄弟は、3人目の長男を亡くしたが、姉妹5人は健在。いつまでも元気に、この生活を続けたいと願っている。欲を言えば、何か好きなことを見つけられたらいい。
 戦争もあって波乱万丈の人生だったが、他の人と比べたら恵まれている方だ。それでいて、今が幸せ。