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新型コロナウイルスのニュースで持ちきりです。名古屋市内のデイサービス2箇所から感染者が出て、計126箇所のデイサービスに2週間の休業要請が出され、5800人の利用者に影響が出るそうです。感染予防に努めていますが、発熱や咳等の風邪症状がある場合は、早急にお帰りいただく等の対応を執らせていただきます。

安らげる場所へ

 生まれは大阪市内の四天王寺の近く、今では近くに『あべのハルカス』が建つ場所。聖徳太子が作った大きなお寺で、小さい頃からよくお散歩へ行っていた。私は兄と妹を持つ長女で、両親は私達をすごく可愛がってくれた。昔から引っ込み思案で、誰かから喋り掛けられれば喋るが、自分からはあまり話さない性格。小学校は四天王寺の中に分校があり、そこに通った。分校と言うと辺鄙なイメージもあるが、本校の児童が多くてやむを得ず分校になった。中学校も、直ぐ近くの天王寺中学校へ。交通の便も良く、金持ちや勉強の出来る子が越境入学で多く集まってきたため、学校生活はあまり面白いものではなかった。高校は市立南高校に通い、卒業後は近所のおばさんに紹介されたダンボールを作る会社へ事務員として就職した。
 結婚は24歳の時。転勤してきた同い年の男性はきれいな東京弁でよく喋るが、話も面白くてハンサム。大卒だったこともあり、迷うことなく結婚し、しばらくして上京した。東京での夫はキッセイ薬品へ勤めるが、じきに独立。夫婦で医者相手に薬を売る商売を創めた。医者から注文がくると私が神田の問屋まで買いに行き、クリニックへ届けた。夫は相変わらず口が上手いので、直ぐに医者とも仲良くなり仕事は順調だった。しかし夫は、その日の売上金で女の人と遊び歩くようになり、酒癖も悪く家にお金を入れてくれなくなった。二人の子供を育てならが、夜は居酒屋でアルバイトをする日々。そして、上の子が高校生の時に離婚。夫は殆ど家に寄り付かず、子供たちも父親を嫌っていた。養育費は多少入れてくれ、薬の仕事も細々と続けられたため、何とか生活できた。口の上手い人には気をつけないと。
 いよいよ子供たちが独立すると、秩父の鉱山で食事を作る住み込みの仕事に就いた。そこで1年程度働いたと思うが、定年で地元に戻って行く鉱夫から「行くところが無かったら、いつでも来てもいいよ」と誘いを受けた。それから日を置かず、その人の住む伊東のアパートへ身を寄せた。あまりの早さに相手も驚いていたようだ。何しろケチで無駄なお金を使わない人。お酒が入らない限りは無口だし、何処へも出掛けないような人だった。だが、私が友達と食事やカラオケに行くと言っても、何も言わずにお金を出してくれた。その頃は仕事もせず、毎日が楽しくて楽しくて、幸せだった。しかし、再婚して何年も経たないある日、主人は「あと4年の命ですよ」と、医者から癌の余命宣告を受ける。「あと4年なんだから、一緒に旅行へ行こうよ」と誘ったが「一人で行きなさい」と言われ、金持ちの奥様と一緒に何度も旅行へ行かせてもらった。そして、丁度4年後に主人は癌で亡くなった。
 主人に似て義理の息子も大変優しく「お金は要らない」と言ってくれ、主人が遺した現金を全部私にくれた。主人が亡くなって早20年経つが、生活できたのは主人と義理の息子のおかげ。伊東では『マリンタウン』の温泉へ毎日のように通っていたが、膝や腰が痛み出し一人だと心細くなってきたころ、長女が「一緒に住もう」と言ってくれ、去年府中へ越してきた。そんな親子二人暮らしもじき1年になる。「やはり一人がのんびりしていい」と思う事もあるが、何の心配もない生活が嬉しい。デイサービスには、週3日通っている。行かない日の朝は、ルミエールの近くの接骨院に通い、ルミエールで昼食。家へ帰るとベッドで横になって過ごしている。動物好きの父の血を引いたのか、長女も犬と猫を飼っているが、私はあまり好きではない。最近、インドで日系の銀行に勤める孫娘が、日本の大学で知り合ったインド人と結婚した。顔も言葉も日本人と変わらず、インド人という雰囲気も無いが、ひ孫の顔を早く見てみたい。近いうちに日本へ来て、お婿さんのお兄さんも一緒になって事業を立ち上げる予定だそう。その時を楽しみにしている。
 現在、80歳。一番良かった土地は、伊東の宇佐美。温暖で真っ青な空と海、温泉もあって最高だった。その風景画を描くのが、また好きだった。でも、心安らぐ場所がある、今が一番幸せ。これからも、ずっと元気に過ごしていきたい。デイも通い続けながら。