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『新型コロナウイルスの感染拡大防止臨時介護報酬改定』では、皆様にご協力いただきまして、毎月の利用料を平均200 円ほど多く頂く事になりました。本当に心苦しく感じます。コロナ対策で休まれていた方々が、皆さま一様に足腰弱っていらっしゃいました。その為、スタッフを増員して対応しています。早く収束して欲しいと切に願っています。

大連に咲く、あの花のように

 生まれは神戸。私が長女で、5歳違いの妹と、その下に弟2人の4兄弟。私は昔からお喋りが苦手で自分からは話さない、のほほんとした性格。母は働き者で、大変な時でもいつも笑顔だった。父は若い頃から腹膜炎を患い、寝込んでいることが多かった。そのため殆ど仕事はできず、私が10歳の時に亡くなった。小学校を卒業し、このままでは子守に出されるところだったが、『大連市場』の役職についている母方の伯父が「こっちの方が良い生活が出来るから」と、一家を大連に呼び寄せてくれた。大連へ向かう客船は混雑が続いており、まず私と母と妹の3人で大連へ渡り、弟たちはしばらく親戚の元で生活し、一人ずつ合流した。大連は西洋建築の建物が建ち並ぶ綺麗な街で、白い花が沢山咲き乱れ、広い道路にはゴミ一つ落ちていなかった。日常の買い物や料理などは現地のお手伝いさんがしてくれ、贅沢な買い物は大きなデパートへ行くなど“お嬢さん” として育った。日本では想像もできないぐらい、本当に良い生活ができた。小奇麗な制服を着て日本人女学校へ通い、日本語しか話さない生活。その学校の生徒は“本当のお嬢さん” ばかりで、大きな友人宅に招待されると、おいしい紅茶とケーキをご馳走になった。我が家は6畳と4畳半の小さな家で、余りの違いに友人を招待する事はなかった。母は住み込みで大連病院に勤め、子供たちが不自由しないようにしてくれた。母はここでも一度の愚痴も言わず、いつもニコニコしていた。愛嬌があり怒った顔を見たこともない温和な母。伯父には妻と娘がいたが、妻である叔母さんは、「肝っ玉叔母さん」で、よく面倒を見てくれた。こうして穏やかに暮らせていたが、日本人中学校に進学した一番下の弟は、中学1年のお正月に盲腸が悪化して亡くなった。お医者様がお休みだったため手遅れになったのだ。
 戦争末期になっても周囲の人に支えられ、ほとんど困る事なく終戦を迎えた。そして昭和23年、23歳の時に一家4人と弟の骨箱を抱え、大連から引き揚げてきた。大連で仕立てた着物や帯、思い出のアルバム、南京豆の缶を大きなリュックサックに詰めて。こんなに重い物を持ったことは、後にも先にも一度きりだ。引き揚げ船の中は狭くて暗く、船底で生活しているようだった。トイレは甲板にあり、そこで用を足した。まともな船室は無く、詰め込まれた200 人ほどの全員が船底生活。3月でまだ寒く、天井からは水滴がぼたぼた落ちてきた。2~3日だったと思うが、ひどい船酔いで毎日吐いていた。吐くと言っても何も食べていなかったので、何も出なかった。佐世保に1週間滞在し、その後兵庫県の母の実家に身を寄せた。田舎の大きな農家だったため、総勢11人での生活にも余裕があった。そこには、年下のいとこが3人居たが、喧嘩もせず皆で仲良く生活した。母は農家の手伝いに精を出し、叔母さんが食事の支度をするのを、私は後ろから見ていただけ。母が時々「少し手伝いをしたら」と言ったが、「うーん」と言ったきり何もしなかった。しばらくすると私は兵庫県三木市役所、妹は農協、弟は郵便局と、皆が堅い職に就いた。結婚は、シベリアから帰還した男性とお見合いで。神戸にある主人の家に入り、姑とも同居する生活が始まった。姑も本当に良い人だったが、主人の事は「いつになったら好きになれるかな?」といつも考えていた。長男がお腹にいた時も、母に「お母さんのところに帰りたい」と言うと、母から「そこに居なさい」と一喝された。貧乏だったが子供が生まれると専業主婦になり、主人の事も自然と好きになった。二人目の息子にも恵まれたが、怒った事の無い優しい主人は48 歳の時に突然亡くなった。私が45 歳、息子達はまだ高校生だった。生活のため、近くのミンク工場で加工や縫製の仕事に就いた。生前、主人がよく「お前とわしの子供だから、悪い子が育つはずがない」と言っていた通り、息子たちも大変優しく、アルバイトで貯めたお金で手袋や靴下、スリッパを買ってくれた。
 息子二人は上京して就職。しばらくして私も母と妹が住んでいる府中に越して来た。母が83 歳で亡くなるまで、母娘3人で生活した。妹はキャリアウーマンでバリバリ仕事をし、一緒に買い物へ行くと、お洒落な服を買ってくれた。その服を着て“デイサービス ももたろう” には、昨年10 月より通っている。デイから帰ると、妹から「今日は何したの?」と訊かれるが、忘れている事が多い。5月はコロナの関係で1ヶ月お休みし、その間外には出ずにテレビを見て過ごしていた。6月からデイを再開したが、しばらく歩いていないためか、足がスムーズに動かなかった。また通えるようになって嬉しい。
 人から見ると波乱万丈な人生かもしれないが、当の私はいつも幸せだった。人との繋がりに恵まれ、何があっても争う事はしなかった。たぶんこの性格は、大連で培われたのだと思う。そして、今でも母の存在がある。母のように、どんな時でもニコニコしていたいと思うが、なかなかなれるものではない。私も94歳になったが、今でも心の中にいる母は、笑っている。