▲ 上記画像をクリックするとPDFファイルが表示されます。
あけましておめでとうございます。昨年はコロナで始まり、コロナで終わった1年でした。市内2校の中学生職場体験授業中止、4大学の教育実習中止、今年2月予定の府中工業高校インターンも中止。若い人たちとの交流を楽しみにしていましたが残念です。今年には何としてでも収束して欲しいです。対策を徹底し、乗り切る予定です。
樺太に生まれて( 前編 )
静岡県出身の父方の祖父は、屯田兵として樺太に渡った。屯田兵は、1反(300 坪)の原野を整地にすると2000 円に加え、その土地を貰うことができた。祖父は働いて働いて大きな土地を手に入れた。樺太生まれの父と母が結婚し、私や妹もみな樺太で生まれた。父は樺太にある大王製紙の製紙工場にエゾ松の木材を供給する会社を営んでいた。大泊にある広い敷地には、大きな屋敷と8 つの倉庫、川から丸太を引き上げるための馬5頭。日本人の他に、アイヌ人やロシア人を雇い、みなが仲良く仕事していた。南樺太は人口40 万人、繁華街は西洋建築の建物が並び銀座のようだった。9月頃から節分あたりまで氷が張るため、お米は出来なかったが、他の作物はよく育ち、果物や海産物など美味しい食べ物に恵まれている。夏には海水浴、冬にはスキーやスケートを楽しめる。真冬は零下40度を下回った事もあるほどで、暖房のある部屋で寝ていても息は白かった。子供たちは寒さにも負けず元気に育ち、凍った眉毛にマッチ棒を置き、どちらが長くマッチ棒を落とさずにいられるか競争して遊んだりもしたものだ。
私が7 歳の頃、“腸チフス”が猛威を振るった。樺太でも大流行し、母と姉・妹の4人が罹かった。病院は患者で溢れ返り、隔離のため会社の倉庫1つを隔離部屋にした。コロナと同じく人との接触を避ける必要があり、治療薬や治療法も無い。母に会う事もできず、食事の受け渡しもまるで犬に餌をあげるように、そっと置いてくる事しかできなかった。4 人を看取った後、隔離に使った倉庫は消毒のため焼き払った。まだ7歳だった私は、おばあちゃん子として育った。後妻さんは女中さんだった若い人で、とても「お母さん」とは呼べなかった。その後、後妻さんは子供を4人産み、樺太の地で何不自由のない生活を送った。
女学校へは1年だけ通ったが、ほとんど勉強はしていない。先生のほとんどが戦地へ行ってしまい、戦争に備えて竹を磨く日々。しばらくして女学校は辞めた。昭和20 年の夏、いつものように小川で米を研ぎ、土手を登った時のことだ。ソ連軍の車列が目の前を通っていった。先導するジープからは「安心して、通り過ぎるまで待って」と言われた。程なくして樺太全体がソ連の統治下に入り、15 歳以上の者は働く事が求められた。一日働くと1斤のパンと給料が貰えた。私は病院に勤めるようになり、主に産婦人科の助手をしていた。ロシアのお産は、産気づくと天井から吊るされた綱を持ち、妊婦さんがしゃがんで下に敷いた藁に赤ちゃんを産み落とす。日本とは違い、お母さんは2~3日だけ休養すると、直ぐにいつもの生活に戻っていった。仕事は楽しく、土曜日には映画も観せてもらえ、ダンスも楽しんだ。ソ連軍にも厳しい戒律があるため、一般人に手を出す事はなく、“年頃” だった私の肩を触る事さえなかった。紳士的であり単純な彼らとの交流は楽しく、ロシア人からはロシア語を学び、日本の伝統やマナーなどを教えることもあった。日本の腕時計は彼らにとても人気があり、壊れたようなものでもとても喜んでくれ、友達と小ばかにしていた。会社の倉庫はソ連軍に貸し出され、そこには米などの食料品が大量に備蓄された。夜中、合鍵を使って中に入り、麻袋に穴をあけては米を拝借した。町内会の人たちと毎晩交代して米を拝借しに行ったものだ。夏にはマスが産卵のため、川を埋め尽くすほどの大群で遡上してくる。父が岸に樽をいくつも並べ、大量のマスを塩漬けにした。豊かな自然も手伝って、食べ物に困る事はなかった。
そんなソ連統治下での生活も3 年が過ぎた昭和23 年の夏、日本人は強制的に引き上げさせられた。親しいロシア人からは「行かないで、良くするから」と引き止められたが、そうはいかない。3500 人乗りの大型客船で北海道へ向かうが、戸籍が消失しているため上陸する事はできず、そのまま船上での生活となった。引揚者全員の戸籍を作り直す為の作業が終わったのは3 ヵ月後。食事は小船で持って来るので不自由しなかったが、みなで汚れたソ連軍の毛布をかぶり、雑魚寝して過ごした。上陸後は函館の五稜郭を見物した後、日本各地の親戚宅などに散らばっていった。私が17 歳の時だった。
何度も「樺太は大変だったでしょう」と言われるが、そんなことはない。50 度線の旧国境付近は刑務所上がりの軍人が多く、いざこざが絶えなかったと聞く。しかし大泊は南端の港町。樺太をはじめ“戦争” は悲惨な事ばかりが語り継がれるが、そうじゃない歴史もある。樺太は自然も、街も、人も本当に良いところ。簡単に手放すのはもったいない。樺太のことを皆に知ってもらい、もう一度自由に行ける日が来ることを切に願っている。