▲ 上記画像をクリックするとPDFファイルが表示されます。
☆80 代・90 代「歩く幸せは」1日にしてならず☆ という言葉をよく聞くようになりました。これはサプリの宣伝文句ですが、毎日の運動も筋肉の維持や向上に欠かせません。4月から“ももたろう” では「いつまでも歩ける」を目標に、下肢の運動や散歩により一層力を入れています。「手芸だけ」ではない“ももたろう” にご期待ください。
生きてるだけで、丸儲け( 後編 )
看護学校の実習は本当にきつかった。入学時には52人いた同級生だが、卒業できたのは半数だけだった。特にきつかったのが外科実習。手術室の実習では、親しい同級生が誤ってメスを素手で触り、すぐに停学となった。看護教員から無視されたり、突き飛ばされたりもし、耐えられず辞めた人も多い。私も2度退学を宣告された。1度目は、患者さんに持って行ったコップの水を1滴、廊下に落とした。モップを取りにその場を離れたのだが、それを見ていた教務主任に「これは退学!」と言われた。呆然としているうちに部屋へ呼ばれ「退学に変わりはありませんから、即刻出ていきなさい!」と言われた。私は一言、「実習させてください」と言って頑なにどかなかった。その後、担任と面談し留年が決まった。2度目は、3人で行動をとる規則になっていたところ、連携がうまくいかず「3人とも退学!」と。「何が何でも食らいついてやる」という気概だったが、退学が覆る事は無かった。緊張の糸が切れ呆然と自宅に戻った。
全ての教科書をビリビリに破き、暗い部屋で陰鬱とした気持ちを手紙にしたためた。ふと、学校から何件もの留守番電話が入っている事に気が付いた。“退学” から5 日間、誰とも連絡をとっていないなか、ひょっこり学校へ行ってみると、皆が「生きていてよかった」と泣いて喜んでくれた。訊くと、私の退学を取り消すよう、患者さんや周囲の方たちが声を上げてくれたのだが、ずっと連絡がつかず案じていたという。私を求めてくれる人がいる事実に胸が熱くなった。あの教務主任からは中古の教科書一式をプレゼントされ、休学扱いとして復学する事ができた。在学中は生活費と学費を捻出するため、学校が無い日の昼間は料亭、夜は船上レストランで働き、床で2~3時間仮眠してまた勉強する毎日だった。家賃と学費を引くと、月に7,000 円しか残らないギリギリの生活。縁あって日曜日だけバーの切り盛りを任せてもらえることになり、金銭的に助かったのはもちろんの事、新しい出会いなどありがたい時間を過ごした。
2年の留年を経て22歳で卒業すると、病院の外科で働くようになった。外科は嫌だったが治る過程が見え、退院される時の笑顔を見るのは仕事冥利に尽きる。昼間は病院勤務、夜はアルバイトも掛け持ちし、馬車馬のように働いた。休みの日は二層式洗濯機まで這って行き、水流を眺めることが最大の癒しだった。いっそのこと海辺で過ごせばいいと考え、伊豆大島の病院へ派遣で行く事にした。ゆっくりとした島時間が過ごせると思っていたが、現実は違った。チェーンソーでの重傷者もいれば、しょっぱいものやお酒が好きな人が多いからか脳梗塞や心筋梗塞の患者も多い。本土へのヘリ搬送も頻繁にあり本当に忙しかったが、同じように派遣で島に来ている医師や看護師が週4回集まってする宴会がとても楽しかった。仲間に誘われてダイビングを始めたのも大島だ。大島では病院閉鎖まで1年間働き、楽しい思い出も多い。
大島から戻ってきた数週間後、私が34歳の時に母が亡くなった。まだ60歳だった母の最期の言葉は、電話越しの「お金を送ってくれて、ありがとう」だった。今までどんな辛いことがあっても我慢できていたが、母を失ってから心にぽっかり穴が開いてしまった。パニック症状が出るようになったため、多少時間的に余裕のある訪問入浴の仕事に変えたりもしたが、ついに仕事中に気絶してしまった。なんとか帰宅し、小さな寿司パックを1 日掛けて食べたが一向に良くならない。意識が朦朧とするなか自転車に跨り救急病院へ転がり込んだ。そこでストレスが原因と診断され、心療内科にも通ったが、いかんせん治療費が高い。気分を変える為、1週間タイへ一人旅に行った。初めての海外旅行で、初の飛行機。狭いシートにパニックを起こすも、旅行で気持ちは少しだけ晴れた。その後もセブ・バリ・プーケットへ行ってダイビングも楽しめるようになり、薬を使わずに3年かけて不調を克服した。もとから結婚願望はなく「80歳ぐらいで結婚できればいいな」と思っていたが、ご縁のある方の一族と食事する機会があり、それを切掛けに同い年の男性と親しくなり、38歳の時に結婚。結婚後も派遣看護師として整形外科や脳神経科のクリニック、訪問診療、老健等で働いた。ちょっとやそっとの事では動じなくなり、老健の利用者さんからナイフを突きつけられても心は穏やかだった。直近は、大田区にある派遣先のデイサービスに引き抜かれて就職し、ノビノビとしたデイで5年間楽しく働いていた。お世話になっていたトップが倒れ、その後のゴタゴタで退社し、近所にあった『デイサービスももたろう』で働くようになったのが3か月ほど前。『ももたろう』では、月曜日に『笑いヨガ』をしている。イキイキと輝く利用者様と過ごす時間はとても愛おしく、今後も『ももたろう』や地域福祉に貢献しつつ80歳までは働きたいと思っている。「今日も幸せに、生きる事ができた」と言って頂けるような、心安らぐ場を提供していきたいと願う。
小学6年生になる娘はピアノが好きで、将来ピアニストになりたいと言って練習に励んでいる。野球好きの小学2年生になる息子とは、毎日100 本ノックをして身体を鍛えている。3年
後の夢は、息子にダイビングの資格を取らせ、親子4人で海に潜ること。そんな想像もしなかった幸せが、今ここにある。これ以上何も要らない。生きているだけで丸儲け、なのだから。