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“ももたろう” には43 名在籍され、90 代17 名、80 代17 名、79 歳以下の方は9名です。平均は86.2歳で、90 代の方々も大変お元気に笑顔いっぱい過ごされています。95 歳で亡くなられた橋田寿賀子さんも「老後の人生というものはありません。あるのは“今” だけ。今の人生を毎日面白がりながらコツコツ積み重ねること。」と仰いました。
人生の伴侶は突然に
生まれは、埼玉県久喜市。8人兄弟の長女で上から2番目。しかし一番上の兄は、小学校3年生の時に木の上で青梅を食べ、赤痢で苦しみながら2日後に亡くなった。母は大変悲しみ、棺桶の中に入って「一緒に行きたい」と号泣していたのを今でも思い出す。私が小学校1年生の時だった。子供が多いため、私も子守や家事の手伝いをしたが、それでも人手が足りず近所の女の子に子守りをお願いしていた。しかし、まだまだ遊び盛りの子供。まだ赤ん坊の妹をおんぶして、縄
跳びや缶蹴りをして遊んでいたらしい。何の拍子か妹は1歳で亡くなったーー。女学校時代の勉強は、戦争が始まったため2年弱だけ。1年生の時は農家へ行き、髄虫取りや梨の袋掛けを手伝った。2年生の時から女学校が軍需工場化され、戦争で使う部品を流れ作業で作った。また、空襲警報が出ると病院に駆けつけて、看護婦の助手をすることになっていたが、幸いなことに1度も行くことはなかった。4年生の8月に終戦を迎え、ようやく授業が始まり、元の5年制に戻った。3割の生徒が5年生まで通い、私も16歳で卒業した。結局、戦時中も戦後も教員不足のためまともな教育は受けられなかったが、卒業時もまだまだ教員が不足していた。父が校長をしていたこともあり、教員免許のない私を小学校の臨時教員として学校に勤めさせてくれた。すぐに4年生の担任になり、その後2~4年生を順に受け持った。その学校では3人が教員免許なしで教え、教員の数が揃うまでの4年間勤めた。給料袋は封を切らずにそのまま母に渡し、すべて生活費に回していた。そういうものだと思っていたし、母から大事にされたため特に不満を感じる事もなかった。ある年、大型の台風が町を襲った。1駅隣の町にある学校へ、歩いて様子を見に行こうとしたが、父から「行ったら命がなくなる」と言われて行かせてもらえなかった。次の日に行ってみると、私のクラスだけ床上浸水していて、プリント類がぷかぷか浮いていた。近所に住んでいた他の先生達は何とか自分のクラスだけは守れたらしいが、それで精いっぱいだったようだ。
結婚は21歳になる2日前にした。相手は血のつながらない親戚の人で、9歳年上。その人のお兄さんが突然学校へ来て、私の授業を見ていた。しばらくするとお兄さんと共に夫となる人が突然自宅にやって来た。何も聞かされていない父や母は、おろおろと大慌て。私の手がガサガサだったのが気に入ったようで「きっとこの手は働き者だから」と。両親も「親族が悪い人を紹介しないだろう」と認めたため結婚することが決まった。その人は元技術将校でサーベルを腰に差したかっこいい写真があり、戦後は電機会社へ勤め設計の仕事をしていた。8畳一間、狛江の寮で新婚生活が始まった。その後、調布に家を求めて探したがなかなか見つからず、府中に家を建て子供3人を育てた。何不自由のない生活を送っていたある日、50歳を迎えた夫が「肩が痛い」と言い出し、近所の総合病院に掛かっていた。主治医からは「五十肩」と言われたが、なかなか治らない。そんな折、普段旅行に行きたがらずいつも庭いじりをしていた夫が、初めて家族をスキー旅行に連れて行ってくれた。家族旅行はこの旅行ぐらいしか記憶に無く、楽しい思い出ができた。旅行から帰ってきてもまだ肩の痛みを訴える夫は他の病院にも掛かり、“念のため” レントゲンを撮るためにシャツを脱ぐと、とたんに医師から「入院の用意をして府中病院に行きなさい」と言われ紹介状を渡された。診断の結果は「既に手の施しようがなく、手術はできない。本人にはなるべく知らさないように。子供は顔に出るから黙っていた方が良い」と言われ、大学を卒業した長女だけには知らせた。肩甲骨が骨のガンに侵され腐っていたそうだ。2月中旬に入院し、5月1日の朝方、夫は何も知らないまま51歳で亡くなった。私は42歳、二人の息子はまだ大学生だった。我慢強い夫は「回復の妨げになるから」と、鎮痛剤の注射を断って最後まで痛みに耐えていた。
45歳から福祉事務所のパートをはじめ、そのツテで49歳で社会福祉協議会に本採用されると70歳まで結婚相談の仕事もした。公的な結婚相談所で無償のため応募者は多数あるが、なかなか結婚には至らなかった。男性は中・高卒者が多く、父母からの申し込みも多かった。対する女性は大卒者が大半を占め、男性の履歴書を見ただけで敬遠する事が多々あった。5市共同でお見合い会を行っていたが、年に5組決まればいい方で、1件も成立しない年が多くなっていった。本当に結婚したければ自身のことを鑑み、高望みはしない事だ。
退職後は仲間や同級生と国内外の旅行を存分に楽しみ、主要な観光地にはほとんど行ったが、特にスイスが思い出深い。“ももたろう” へは一昨年から毎週木曜日に通っている。30代で始め、八段まで取った書道を40年ぶりにしたくて探したデイ。一日で飽きるかもと思っていたが、楽しく続いている。最近始まった握力測定では「43人中で2番目に握力が強い」らしい。それでも足腰は弱くなったので、もう少し歩けるようになりたい。コロナで休止していた三十年来の歌の会が再開するというので参加したいと思っている。現在91歳。長男夫婦と3人で生活していて、ひ孫も10人いる。夫の早すぎる別れは残念だったが、良い人生だった。ちなみに何人かに結婚を申し込まれたが、考える事もなかった。年を重ね「もういいや」と思う時もあるが、もう少し生きていきたいと思う。