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毎月、制作とフラダンスをして下さるボランティアの女性お2人が、綺麗に口紅を塗り、マスクを取って笑顔でフラを踊って下さいました。それを見ていらした方が「わー、笑顔が素敵!笑顔が素敵!」と、何度も言われていました。日ごろのマスク生活で「笑顔」が見られないため、感激もひとしおだったようです。笑顔の素敵さを改めて感じた日でした。

生きることは、食べること

 わたしたちの食堂『いなり木』が“デイサービス ももたろう” のお弁当を作るようになって、15 年になる。今ある『いなり木』の食堂は『手をつなぐ親の会』という障がい者支援団体が39 年前に作ったもの。元はこの建物の2階で封筒のシール貼り等の軽作業をする作業所があり、先代の会長が1階を使って障がいのある方々による食堂ができればとの思いで開設した。しかし、食堂経営は障がいのある方には少々難しかったそうで、会長を中心にして、会の母親たちが力を合わせて営業を続けていた。そんな時、会の母親である友人から「人手が足りない時に手伝ってほしい」と言われ、時々手伝うようになった。当時の私は娘2人を抱え、自宅で図面の清書を行うトレーサーの仕事をしていた。そのためため、時間に都合がつけられ週1日、お手伝いに通った。それが2日、3日と手伝う日数は増えていった。

 私は中野で生まれ、山形県出身の父は米屋を営んでいた。父の地元では我が家を「東京の家」と呼び、山形の親戚やその親戚まで自宅にはいつも誰かが寝起きしていた。受験期になると山形から大学受験のために1~2か月下宿する人が何人もいた。米屋の使用人も4 ~ 5 人おり、いつも15 人程度が食卓を囲んでいた。人数が多いため買って食べる訳にもいかず、食事は全て母の手作り。いつも十分な量を用意していたため、近所のおばあちゃんやおじいちゃんも気軽に食事し来る、ちょとした食堂のような家だった。そのため、家族だけで食事をした記憶は無い。母はその他の面倒事も嫌な顔せず引き受けていた。母の背中を見て、私も小さい頃から米屋の仕事を手伝い、60 キロの米俵も担いだ。中学生になってからは調理も手伝うようになった。朝は母の鰹節を削る音で目覚め、大きな鍋いっぱいに煮物や味噌汁を作っていた。そういう生活に慣れていたので、食堂の手伝いは大変と思わなかった。逆にいつも調理していた量より少なく「え、こんなに少なくていいの?」と思う程だった。21 年前に69 歳を迎えた先代の会長から「食堂を継いで欲しい」と言われた。私が50 歳ちょっとの時だ。事業引き継ぎについて主人に相談すると「出来る限り手伝うが、代わりはできない」とはっきり言われた。2階の作業所は車返団地の中にできた『ひまわり園』へ移動したため空いた。主人と共に食堂の2階へ転居し、新たな生活が始まった。この時のスタッフが今も一緒に仕事をしてくれ、頼もしい右腕になってくれている。

 『いなり木』の食事は、化学調味料をほぼ使わず、鰹節・さば荒削り・昆布・だしじゃこをベースとして煮物や味噌汁を作っている。揚げ物油にはラードを入れず、良い植物油を使っているため「サクサクして美味しい」「胸やけをしない」と好評を頂いている。町田の作業所が古い油を回収にくるが「まだまだ使えそう」といつも言われる。食欲にも大きく影響する見た目にもこだわり、赤・緑・黄色・黒・白の5色バランスを大切にした定食弁当は、お惣菜が美味しいと言って頂いている。特にカボチャは、美味しいカボチャを使っている。肉も全て国産。外国産はにおいがきついので一切使っていない。

 私の生活はというと、朝5時過ぎに1階の調理場へ降りて仕込みを始める。主人は毎朝食堂周辺と府中公園の道路を掃除してくれている。お客様は11:30 からみえ、市内のデイサービス2か所分のお弁当も正午過ぎには完成させる。食堂のお客様には定食弁当を中心に、日替わり定食も用意している。昼だけの営業で15 時には大体の仕事は終わり、夕食のおかずを買いにみえる方々におかずセットを用意する。その後、次の日の買い出しを行い、夜になると2階から降りてきた主人と共に、ゴボウやフキの皮むき、カボチャの種取り、ほうれん草を束ねる作業などをする。この時間が、夫婦の時間。22 時から遅い日は23 時頃まで準備をして、やっと2階に上がって軽い夕食を頂く。新聞はパラパラとめくるだけ。『いなり木』の定休日は土・日・祝日だが、仕込みの関係で私の休日は土曜日。その土曜日も何かと準備等があり、娘の手伝いも出来ず映画もここ何年も観ていない。皆さん、スポーツジム等で体を鍛えておられるが、私は毎日の食材上げ下ろしがその代わりになっている。食材は重いものも2階で保管しているため、30kg の米袋だって何のその。日中もほとんど立ちっぱなしだが、こうして元気に仕事している。幸いなことにお産以外で病気や入院をしたことは無い。やはり小さい頃から母の手料理を食べ、米屋の仕事を手伝っていたのが元気の秘訣だと思う。ちなみにスポーツには縁遠く、何もしていない。

 「70 代から96 歳の方まで、皆様完食ですよ」とデイスタッフの方。「デイできちんと食べているので、夕食は簡単でも栄養が取れているので安心」と言われる一人住まいの方。「髪の毛が黒くなった」と言われる方。励みになります。毎日大変でもあるが、仕事をしているからこそ美味しい食事を頂ける。良い人たちとの出会いもある。溝の口から通って下さる30 代の男性は、仕事がお休みの日でもわざわざ定食を召し上がりに来て下さる。以前は毎日みえ、いまも週2回はみえて6年目になる。結婚されて奥様も一緒に来て下さった。もうお一人も男性の方で、もう何年も通って下さっている。毎日弁当を買って帰られるご夫婦もいらっしゃる。食堂のスタッフもよく働いてくれ、みな風邪も引かず、仕事に穴を開けることはない。“ももたろう” とのお付き合いも、スタッフのお母様が“ももたろう” に通う事になり、話を聞いた所長が食べにみえたのが始まり。コロナで客足が遠のいた際も、デイサービスへの仕出しで安定した数が確保できた事が、事業継続に繋がっている。このご縁に、とても感謝している。

 いつも心穏やかにいられるのはきっと、あの母の食事と、食卓を囲んだ様々な人との触れ合いによって培われたものだと思う。生きることは、食べること。全てのご縁に感謝しつつ、車の運転ができるうちは、この食堂を続けていきたいと思っている。

【いなり木・府中町2 丁目31-1(府中公園の北東角)】