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国は「マスクを外してもいいよ」と言っていますが、暫くの間“ももたろう” では今まで通りの対応を続けたいと思います。スタッフも定期的な抗原検査や室内の消毒を続けます。みなさま「笑い」「おしゃべり」「レク」「制作」が元気の源のようで、変わらずお元気に過ごされています。このまま収束していくことを祈るばかりです。

マジックが繋ぐ、点と点 ≪前編≫

の農家に6人兄弟の5番目の息子として生まれた。父は体が強くなかったこともあり、農家といっても自家消費の野菜を育てる程度の、いわゆる“水飲み百姓” だった。父は本を読むのが、母はビワを弾くのが好きだった。生活は苦しく、当然小中学校時代に小遣いはない。近所の田植えを手伝ってお駄賃や昼食をご馳走になっていた、そんなある時。大きな田んぼに田植えをする人見ていて気が付いた。腰に下げている稲が無くなると、畦に上がって稲を補充するのだが、そこに無駄な小休憩が発生していた。植え手が植え続けられるように適宜稲を補充していくと、効率的に田植えができるようになった。植え手からは軽く顰蹙を買うが、田主からは喜ばれ田植えのたびに呼ばれるようになった。演劇との出会いは、中学校3 年生の時に赴任してきた先生が立ち上げた演劇部に入部したこと。すぐ部長に抜擢され、演劇の楽しさに気付くと同時に、自分の音痴にも気が付いた。卒業式の後に恩師の家に呼ばれ、ねぎらいの言葉を貰ったのが今でも胸に残っている。

 その翌年、私が高校1年生の11 月に父が亡くなった。さすがに大学進学は無理と悟り、地元の高校を卒業すると名古屋の老舗繊維商社に就職した。大卒だとすぐに大阪の貿易部に配属され1万2千円の初任給を貰うのだが、高卒の私は7千円の初任給で寮生活。しかも1年間外出禁止・3年間外泊禁止で、昔の丁稚奉公か軍隊のような待遇だった。先輩の生活を支えるのが“一年兵” の仕事で、掃除や洗濯など何でもやった。列車で出張へ行く先輩のために座席の確保もした。仕事は荷造りから始まり、倉庫番、繊維や取引先などを覚えた2年目の終わりごろから営業に回された。反物・呉服・衣料品・雑貨を卸す外回りの営業が仕事で、当初から前期売上の3割増を要求された。ふと、社長が留守にしている間、社長の高級輸入車は稼働しない事に気付いた。専属ドライバーと仲良くなり、社長が使わない日はこっそり取引先の買い付け担当者を送迎するようにお願いし、着実に売り上げを上げていった。目標が達成されると次も3割増の要求――。先輩から「ノルマ達成を続けていれば翌期がますます苦しくなる」と教えられ、サボる事を覚えた。外周りと称して映画や演劇を観るようになり、昔夢見た演劇の世界に憧れを抱くようになった。

 数字を追う仕事に嫌気がさしてきた3年目の終わりに、安定を捨て、“橋の下” になってもいいと奮起して、演劇用の大道具や照明等を作る会社に転職した。劇団にも入り、舞台装置作りと俳優の二足の草鞋生活。中学の恩師との繋がりで入った劇団では、北海道から沖縄まで全国の学校を周って講演する“児童演劇”をした。スーツケース1つ持ち、いすゞ自動車から寄贈されたエルフに15 ~ 6 人乗り込むと、3か月の巡業に出掛ける。過疎地の学校では、車の通れない橋を超えるのに住民総出で手伝ってくれたり、食事をご馳走になったりと、人との触れ合いが嬉しかった。この時に東京の神戸銀行を辞めて合流した誠実そうな女性団員と、後に結婚することになる。自分たちで劇団を作ろうと話し合っていた矢先、巡業で留守にしていた本部が全焼し、本や小道具すべて焼けた。全てを失い、名古屋へ帰る事になったが、妻になる女性もついてくるという。特に恋仲という事ではなかったが、仲間から背中を押され、私が26 歳・妻が29歳の時に結婚した。結婚に際して義理の父との約束で、妻を経済的に苦労させないと誓った事もあり、芝居は諦め定職に就いた。

 妻はアルバイトをしながらも芝居を続け、2年後には長男が生まれた。今の仕事だけでは食べていけない。仕事を探していた矢先、妻から仕事の話が舞い込んだ。当時住んでいたアパートの隣人と妻が仲良くなったのだが、その人は教材販売会社社長の“二号さん” だというのだ。早速社長を紹介してもらい、教材販売の仕事に就いた。主に性格検査や学力検査の教材を売る仕事で、心理学などの本を何冊も読んで勉強した。父の影響からか本を読むのは苦ではなく、勉強しながら仕事も上向いて行った。この頃から、妻は何かと東京の実家へ帰るようになり、義理の両親のお世話も必要になったため、私が30 歳の時に東京の妻の実家に住まいを移した。今度は東京で職探しが始まり、保険の外交試験を受け合格。保険の外交は歩合の仕事だが、一件契約できるとしばらく収入があるため、新たに契約が取れなくても生活できた。その隙間を使って、教材販売の代理店として兼業を始めた。教材販売の仕事をしていた時の知り合いから声を掛けられたのだが、よく勉強していたのが理由らしい。その後、嘱託社員として別の教材販売会社に就職し、仕事を一本化した。学校教材を手広く手掛けている会社の営業部長になり、それこそ全国の学校を回って歩いた。仕事は充実し、これといった趣味も無いが、次男も生まれ生活していくのが精いっぱいだった。妻の実家を売りに出し、調布に住まいを移した。

 心理検査の業務委託を経て独立、『日本心理テストセンター』を起業した。全国から集まった解答用紙を従業員が採点し、結果を戻す業務。計算機で表計算する時代になり、40 歳を過ぎた頃に百数十万円掛けて計算機を導入、プログラミングも学んだ。しかし、時代の変化は思いのほか早く、すぐに大型計算機が覇権を取りテストセンターの仕事は減っていった。そんな状況なのに“見栄” で調布の高層マンションを事務所として購入したが、仕事が上向く気配はない。生活はますます圧迫されていき、T シャツの印刷業も始めるが、ほとんど売れない。妻も働きに出てくれていたが、子供は高校生と大学生になり、何かと物入りのため、どん底の生活に陥った。購入した事務所は数年で売却し、新たな借金もできた。物欲は持ってはいけないのだと悟り、藁にもすがる想いで新聞広告に出ていたタイヘイの宅配代理店に応募し、審査を経て府中エリアの代理店になった。保証金を支払うと、現金は完全に底をついた。49 歳の時である。     ≪次号に続く≫