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ご自宅ではお一人で食事される方も多いためか、肘をついたり背中を丸めて昼食を召し上がる方がみられます。姿勢が悪いと食べ物が胃に入らず、むせて誤嚥性肺炎にもなることも。また、しっかり20回は噛むことで口の周りの筋肉が刺激され、顔全体の血流が良くなります。踵をつけ、姿勢良く召し上がるよう声掛けしています。

マジックが繋ぐ、点と点 ≪後編≫

 背水の陣で挑んだタイヘイの仕事は、ただがむしゃらに働いた。食材を個人宅まで配達する仕事で、常に車を運転していた。酷使される配達車両は1年間持たずに乗り換える事があったほどで、自然とディーラーが家から近いメーカーの車種を選ぶようになった。新規の営業は演劇で培った声が役に立った。玄関前で元気な声を出して挨拶していると、その声を聞いた近所の方が興味を持ってくれ、契約が取れるようになった。お客さんからは少々嫌がられることもあったが、そうやって地道に繋がりを作っていった。そして、タイヘイの仕事を始めて4 年目、53 歳の時に『全国代理店最優秀賞』を受賞し、人生で初めて表彰状を受け取った。糖尿病食の配達という、社会的な使命も相まって仕事は充実していた。妻は妻で仕事を続け、警備会社の経理を任されるようになっていた。私は朝から晩までの仕事だが、私が帰宅しても、妻はまだ帰ってきていない日もあり、時には深夜まで長時間仕事をしていた。その甲斐もあって生活は上向いていった。

 この生活が20 年近く続いたある日、72 歳の妻に大腸がんが見つかった。自宅から近くの病院へ入院し、闘病生活が始まった。毎日見舞いに行くためには、仕事との掛け持ちはできず、これを機にタイヘイの仕事は辞めた。抗がん剤治療で一時的に快復した時を見計らって、二人して近場の旅行を楽しむようになった。治療が一段落した際に、快気祝いとして少し遠出した京都大阪旅行中、妻から問われた言葉が私の人生を動かしていく。「お父さん、私が死んだらどうするの?」との問いに、「何かしなくてはいけないな」と、強く感じた。かといって物欲は無く、多忙だった事も相まって、これといった趣味も無い。さすがに今から役者を目指すには遅すぎる。そんな折、近所に『調布マジッククラブ』があることを知り、71 歳の時に入会した。その年、74 歳になった妻に脳と肺への癌転移が見つかった。国立医療センターへ入院する事となり、毎日の見舞いは叶わなくなった。

 9月からは放射線治療も始まり、妻は辛そうにしていたが懸命に治療を続けた。年が明けた3月、妻の体調が回復してきたため、自宅療養に切り替えるべく、在宅復帰の準備が始まった。自宅に介護用ベッドを搬入し、あとはエアコンの導入を待つだけとなった。妻にその事を報告し、「明日は早く来てね」との言葉を最後に病室を出た。最近食欲の低下が少し気はなっていたが、「もうすぐ帰ってくる」と胸は躍っていた。翌日の4月3日、妻が意識消失のため緊急治療室へ入った事を知らされ、そのまま目覚めることは無く4月5日午前8時46 分、妻は75 年で人生の幕を閉じた。私が72 歳の時だった。妻の勤め先だった会社の社長が葬儀を取り仕切ってくださり、色々と大変助かった。

 以前、妻と一緒に旅行した三陸のリアス式海岸や、八景島シーパラダイスでの光景が心に残っていたため、三浦半島の海の見える高台にお墓を建てた。妻が亡くなってから、毎月第一土曜日は墓参りへ行く事に決め、コロナ禍でも一度も欠かすことなく続けている。お墓の近くに腰を下ろし、缶ジュースを飲みながら日々あった事をゆっくり報告している。

 私はその後もマジックの勉強を続け、翌年から“デイサービス ももたろう” で月1回のボランティアへ行くようになった。一足先にボランティアへ行っていた同年代の女性に誘われ、その女性を相方として一緒に通いはじめ、もう12 年になる。実はその相方もご主人を亡くされている似た者同士。コロナのため一時ボランティア活動を休止していたが、昨年の9月より活動を再開している。同じ手品をしないようにしていて、利用者さんからも「いつも違う手品で飽きないわ」との感想を頂く。披露するまでは1日に3回、1週間かけて練習する。「ボランティアだから」との理由で手抜きをしないのが私のポリシーであり、見てもらうからには十分な準備が必要だと思う。それが良い緊張感を生み、「姿勢が良いですね」と褒めてくださるのもその結果だろう。“ももたろう” でのボランティア帰りに、府中駅近くの喫茶店に寄り、今日の反省と次は何をしようかと相談するのが通例になった。二人とも旅行用のキャリーケースを引いているため、初めのうち店員から「どんな関係か」と横目に見られていたが、今では「いつもありがとうございます」と挨拶されるようになった。

 82 歳で運転免許を返上し、現在85 歳。調布で一人暮らしを続け、料理はYouTube を参考にしながら自炊している。包丁などの調理器具の扱いや、調理手順を考える事など、手品が活かせる点が多く助かっている。逆に、若いころから何かと工夫する事は、手品にも活かされている。何事も長く続いたためしが無い事に後ろめたさを感じていたが、今回こうして半生を振り返ってみると、同じような事を続けていたのだと感じられる。お世話になった方への恩返しと思って手品のボランティアも続けているが、毎月の妻への報告が愚痴にばかりにならないのも、こうした活動のおかげだと思っている。妻の病室で始まった私のマジックショーは、78 歳で『シニア・マジックコンベンション』のグランプリを受賞し、79 歳で『日本奇術愛好会』の特別賞を受賞した。84 歳になっても表彰状を貰うことができたのはマジックのおかげだ。今は6 月4 日(日)に府中の『中央文化センター・ひばりホール』にてマジックの発表会があるため、その練習をしている。

 人生でやり残したことは無い。ハタチそこそこで飛び込んだ、無謀に思えた挑戦でも“橋の下”になる事なく過ごせてきた。平穏無事な現在が、いささか不思議なぐらいだ。この生活が続けられる限り、続けていくのが幸せだと思っている。妻が亡くなってからの5年間は何かにつけ寂しかったが、7年目からその寂しさも無くなった。最近は“相方” と、“終活” の話もするようになった。

 人に恵まれ、励まし合える人がいる。今が、幸せ。