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様々な介護施設で『口腔ケア』を実践してきた歯科衛生士が入職して7カ月。ももたろうでも10 月から口腔機能向上加算を算定する準備を進めています。9月は準備期間として全員に食後のケアをしていただいており、すでに歯ブラシを持参して磨かれる方も多いです。10 月に向けて歯ブラシの購入等、ご協力よろしくお願いいたします。

すべて、捉え方次第

 3人姉妹の長女として岡山県岡山市、岡山駅が目の前の駅前町に生まれる。父は警察官、母は主婦をしていたが、戦争の影響で祖父母とも一緒に住んでいた。祖母の影響で小さい頃から自宅に日舞の先生に来て貰い、高校卒業まで習っていたが、あまり好きではなかった。高校まで地元の学校に通い、高校卒業後は神戸のミッションスクールに入った。ここは、保育科と宗教教育科だけで、保育科を学んだ。心理学、保育学、ピアノは日本人の先生だったが、アメリカ人女性宣教師の先生も多く、レクリエーションはたどたどしい日本語と英語で教えて下さったのがお世話になったキャロル先生で、レクの授業が一番好きだった。宣教師である英語の先生と一緒に宝塚劇場へ観劇に行き、英語を話す機会を作ってくれたり、多くの同級生が寮に入って寝食を共にしたのは大変いい思い出。それでも勉強は厳しく留年した人もいたし、寮にも厳しい舎監がいた。朝は時間通りに起きないと朝食を食べさせてもらえず、午後6時の門限を守らなかったら厳しく叱られた。だからアルバイトは出来なかったものの、良い友にも恵まれて大変充実した2年間になった。卒業してから岡山に戻り、2年間幼稚園に勤めた。その後は花嫁修業で洋裁学校に通いながらお見合いをしていた。同じ岡山県出身で、お互いに父親が警察官という今の主人とお見合いで出会った。航空自衛隊のパイロットだったため、父は心配していたが、まだ下に2人の妹がいる。「早く片付いてほしいと」常々言われていたので結婚した。結婚後は、主人の赴任に合わせて日本各地に移り住んだ。まずは、岩国。その後、名古屋・茨城・福岡・東京・浜松と数年で転勤を繰り返した。ファントムに乗る主人は、寡黙で頑固で勉強熱心な人だった。飛行隊長の時は部下のパイロットだけではなく、整備士も家に呼んで酒や麻雀でもてなしていた。何かあれば帰れない事もある仕事なだけに、朝は気持ちよく送り出すよう努めていたため、何事も“さりげなく” こなし、喧嘩はしなかった。

 子供は、長女・次女・長男の3人を授かる。本当に引っ越しばかりしていたため、小学校だけでも2~3校替わった。幸いなことに、新しい学校にはスムーズに溶け込んでくれた。長女が高校生の時に、九州から司令部のある府中に転居する事になった。長女だけ先に府中に下宿して、高校へ編入する準備を進めた。府中高校に丁度1名の欠員があったので試験と面接を受け合格し、高校3年生から編入した。不合格だったら長女だけ九州に残る事も考えていただけに安堵した。その長女は九州の田舎町では叶わなかっただろう美術の道に進むことを希望し、美大の予備校へ1年間通っていた。私はというと、今まで全国各地のどの官舎でも奥さんが働きに出ている事は無かったので、働きに出る選択肢はなく、余暇で木彫り・貼り絵・シルクスクリーン・水引などの習い事をしていた。しかし、府中では奥さん方の多くが働きに出ていたので、” 少し”のつもりで就職活動をした。履歴書を持って府中市役所に行くと、すぐに公立保育所で臨時採用された。その後は仕事を辞めてもすぐに声が掛かり、文化センターや保育所などで働き続けた。主人はあまり働きに出ることを良しとは思っていなかったようだが、「役に立つなら行かないとな」と背中を押してくれた。日野市に活動範囲を移すと、日野市でも複数の保育園で仕事をした。58 歳の時、日野市主催の『レクインストラクター』の募集があり、学生時代のレクと今のレクはどう違っているのか興味があった。保育園の仕事を辞めて第1期生になり、1年間通った。レクの基本は同じだが、キャロル先生のレクはアメリカ式、日野のレクは日本式といったところ。資格を取ると、すぐに都立七生福祉園に採用された。知的障がいの方が通う作業所にて、週1日勤務した。そこでは鞄作りや椎茸栽培をしていた。その頃に法律が変わり、仕事だけでなく楽しみのある人生を送るようにと、午後の時間にレクが取り入れられたのだ。仕事を始めてしばらく経った頃、岡山に住んでいる舅が90 歳の時に階段から落ちて認知症になった。毎週ではないが月に何回か岡山へ帰って介護をするようになり、この時にヘルパー資格を取った。福祉園と並行して、府中市『くすのき会』の介護予防の講師を務め、今でも市内のデイサービス3か所でレクをしている。『日本レクリエーション協会』の理事もしているため、9月に徳島での全国大会に参加して帰りに岡山に寄って実家のお墓参りをする予定だ。

 主人は54 歳の時定年になり、73 歳まで専門学校の講師や事務長職に就いていた。今は詩吟と碁が趣味で、よく出かけている。“ももたろう” にも時々、詩吟のボランティアに行っている。長女は、社会人3年目で単身渡米し、アメリカの美術大学へ通い始めてから日本に戻らず、今は美大で知り合った日本人のご主人と、3人の子供と共にニューヨークで暮らしている。最近はハイブランドとの仕事が増えているらしく、今はニューヨークのティファニー本店のアートを担当している。私はというと、“ももたろう” へ土曜日、月に2~3日勤務している。午前はレク講師、午後は2階でアロマセラピーや整体のまねごとをしている。切っ掛けは、“ももたろう” にボランティアで来ていた所長の義姉が寮生仲間で「同じ府中に住んでいるなら何
か手伝ってあげてよ」と言われて。勤務しだして13 年半になる。また、直接の面識は無かったが同じ学校を出た後輩を“ももたろう” に紹介し、今でも元気に訪問介護のヘルパーとして働いている。

 去年、節目の歳になったので一度立ち止まろうと考え、やりたいことを再考した。自彊術などのいくつかの趣味は止め、22 年間勤めた福祉園も辞めた。代わりに昨年11 月よりメディカルスイミングに週1回通っていて、絵の教室にも行ってみようと思う。81 歳になった今、あと何年この生活ができるかは考えずに、出来なくなったら止めればいいと思っている。そうなったら主人と二人、ゆっくりと花や野菜でも作りながら” さりげなく” 生活しようと思っている。津田塾の先生がレク協会の会長だった頃に「24 時間レク」という言葉を頂いた。常にプラス思考で楽しみながら、前向きに生活しなさいということだ。

 勉強したから今があり、資格があったから働けた。働いていなければ、ぼーっとテレビを観て過ごしていたかもしれない。新しいものを取り入れつつ、今かもらも楽しく生きていきたい。