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2011 年よりコロナ期を除いて毎月マジックショーに来て下さった相原さん。男性の薄井さんと息の合ったショーで楽しませて下さいました。6/21(上写真)のショーの後、お二人で反省会を行い、お一人暮らしの自宅にそれぞれ帰られたそうです。その日の夜、相原さんはご自宅のお風呂でお亡くなりになりました。83才でした。いつもの素敵な笑顔が目に浮かびます。ご冥福をお祈りいたします。

家族のカタチ [前編]

 生まれは、新潟県佐渡。両津港に近い、海も山も沼もある自然豊かな島育ち。実家は兼業農家で、父 はトラックの運転手、母はホテルの仲居さんをしながら農業もしていた。母は 12 歳の時にお母さんを亡 くし、それ以来母親代わりに弟を世話してきた大変な働き者。「ひもじい思いをさせたくない」と農業に 関しても勉強熱心な人で、農家を回って作物の育て方を教えてもらっていた。そんな母は現在 90 歳、脊 柱管狭窄症もあり背中が曲がっているものの、座りながら農業を続けている。姉妹は一つ年上の姉だけ だが、佐渡の実家は今も 10 人の大家族で住んでいる。

 私は小さい時から看護師になりたいと思っていた。小学生時代に保健係として、怪我した児童の傷口 を消毒したり、絆創膏を貼ったりするのが好きだった。その頃に同居していたおばあちゃんが度々脳梗 塞で倒れていて、ついに 3 度目の脳梗塞で寝たきりになった。小学 5 年生の時からおばあちゃんの介護 を手伝うようになって、日々のおむつ替えもした。当時のおむつは布だったので、外の水道で手洗い洗 濯した。当時は介護保険も無い時代。誰に頼るでもなく家族の世話は家族が見るのが当たり前で、孫の 私がお世話するのも疑問は無かった。寝たきりになった祖母は、それからずっと入浴はできなかった。 高校卒業までの8年間、一生懸命におばあちゃんの介護をしていた私を見て、母が「お前は、看護婦さ んになるといいね」と言った。高校卒業後の進路は、高校の先生の知り合いが春日部市役所に勤めていて、 春日部の産婦人科医院が看護学生を募集していると教えてくれた。佐渡から一人埼玉に越してきて、紹 介された医院に就職した。同時に医師会立の准看護学校に入学。授業料は勤めている医院が出してくれ る代わりに、午前中は医院に勤め、午後に看護学校へ通った。その医院には4人の看護学生がおり、交 代制で夕方から午後 10 時まで正看護師の補佐業務もした。また、出産が近ければ陣痛室で仮眠を取り、 夜間でも明け方でも仕事をすることがあった。お給料は3万4千円とお小遣い程度の額だったが、食事 付きの住まいがあったため十分だった。他の医院に就職していた学生友達は、もっと条件の良い所が多 かったが、就職した医院を辞めると看護学校も辞めなくてはいけないので、2年間頑張って勉強し卒業 した。最初は泣いてばかりいたが、1日中仕事と勉強をしていたので、根性と忍耐が育った。看護学校 は 60 名のクラスで、疲れの為か居眠りをしている友も多かった。赤点が続いて退学した友もいた。卒業 後も3年間は医院にお礼奉公として勤める約束だったので3年間勤めた。日勤は8時半から 18 時までで、 夜勤の日はナース室で仮眠をとりながら働いた。准看護師の資格をとってからはお給料も良くなった。

 33 歳の時に結婚し、娘がすぐにできた。子育てで夜勤ができなくなるため、看護の仕事から離れて訪問 ヘルパーの仕事を始めた。その後、ママ友が働いていたデイサービスを紹介され、常勤看護師として就職 した。そのデイサービスは常勤の看護師が他に1人いて、介護士と一緒に送迎の添乗や入浴介助もした。 次第に看護より介護の仕事に魅力を感じるようになり、その後もデイサービスを中心に何度か転職した。 色々あって、私が 45 歳、娘が 12 歳の時に離婚。東京で独り暮らしが始まった。もともと頭痛持ちだった のだが、53 歳の時に経験したことのない頭痛に襲われ、何とか自力で救急車を呼び、病院へ救急搬送された。 病名は “くも膜下出血”。集中治療室へは佐渡の親族や看護学校の友が見舞いに来てくれたそうだが、一切 記憶がなく、憶えているのは2~3週間後に移されたであろう大部屋の記憶からだ。処置が早かったため か、大きな後遺症なく退院できた。退院してから一旦佐渡の実家に療養のために帰るも、1年ほどで友人 も多くいる府中に戻ってきた。ただし、万が一のことを考えて常に誰かが居る “シェアハウス” での生活 を選んだ。ここは、20 ~ 30 代の男女を中心に、10 名が共同生活をする家。職業もデザイナーや薬剤師な ど多彩だ。そこでの暮らしは、映画『老後の資金がありません!』で描かれていた生活とよく似ている。 一緒に食卓を囲み、まるで大家族のような生活は寂しさも無く楽しい。ちなみに私が一番の年長者で、母 親やおばあちゃんのような立ち位置だ。食事を作るのは当番制ではあるものの、私が作ることも多い。親 と子ほど年の離れた若い世代に対して、「自分の子ならこうする」、「この子の将来を考えたらこうする」 と親の心で接している自分がいる。一人で愛は完成しない。誰かとの触れ合いがあってこそ完成するもの で、家族と思って心から接すれば、家族になれるのかなと想っている。くも膜下出血で社会復帰できるの は 30% と言われているだけに、「生かされている」と感じられ、性格も大分ポジティブになったと思う。

 シェアハウスに引っ越してきて1~2年経った 2017 年頃、“ももたろう” の近くのお宅に住んでいる知 人のお母さまの介護を「介護と看護が出来るなら」と頼まれ、住み込みで看護するようになった。一日 24 時間、 病状的に目が離せない方で、夜も2~3時間ごとに「トイレ」と言われては起きて、ポータブルトイレに 用を足してもらった。日中お仕事で忙しくされている娘さんの代わりに、介護の他にも、買い物・料理・掃除・ 洗濯・入浴介助など身の回りのことは何でもした。四六時中一緒にいる生活に対して娘様が気の毒がられ、 お母さまを週2日デイへ通うように説得して下さったのが “ももたろう” との出会いである。
【次号へ続く】