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現在デイももたろうは、50 名の方々がご利用下さっています。見学にみえた方から、「若くて、お元気な方ばかりですね」とよく言われます。100 歳以上… 1 名、90 歳以上… 11 名、85~89 歳…18 名、80~84 歳…17 名、79 歳以下… 3 名の平均 86.2 歳。若くて元気な皆さまの作品を『グリーンプラザ分館』にて、6/13~14 に展示します。若々しい作品を見に、是非ご来場ください。

理系教授のアダージョ

 3男5女の大家族。私は7番目で、2歳年下の妹がいた。静岡県から池袋に移り住み、私が小学 1 年生の時、今で言う胃がんで父が急死した。一番上の姉が成人間近だったので、すぐ仕事に就き、収入をいささか入れて生活を支えてくれた。勉強は一つのテーブルを交代制で使い、兄3人は妹たちの勉強をよく見てくれた。母は呉服店の和服仕立てをしながら、女手一つ8人を育ててくれた。母がお針をしている膝で寝ていたことも多かったと聞いている。
 私は和服専門学校に進み、卒業後は母と二人、自宅で一緒に仕事をした。終戦後、兄の紹介で都庁へ務めた。結婚相手も兄の紹介。兄の親友で、同じ専門学校の教員仲間だった。主人は一人っ子で、私と同じく早くして父親を亡くし、母親と二人きりの生活をしていた。そのため、兄弟が多い我が家が羨ましかったそう。とても温厚で、マイペースな主人との新婚生活は、国領にある12帖一間の都営住宅ではじまった。新婚生活といっても、姑と3人。トイレ・炊事場は共同、風呂の無い兵舎転用の建物で7年間生活し、その間に娘2人を授かる。私は都庁を辞め、自宅で針仕事をしていたが、姑が食事の準備をしてくれたので仕事がはかどった。姑も理解があり、教育熱心。嫁姑関係で困ることはなかった。主人が元々音楽鑑賞が好きだった関係で、子供たちも音楽に興味を持つようになった。オルガンだけでもと、買い与えて練習させた。その後、戸建の都営住宅が当たり、転居。子供3人と姑とで6名、12年間過す。間取りは3畳・4.5畳・6畳。ここでも着物や洋服を縫っていた。子供たちには念願のピアノも買い与え、レッスンには主人が進んでついて行ってくれた。主人は40代で都立大学の教鞭を執るようになり、正月になると研究室の学生が何十人も自宅を訪れた。10人交代で家に上げ、私と姑とで料理を大量に作って振舞ったのを思い出す。人が好きな主人らしい正月だった。
 50歳頃府中の家に移り、また6人で生活した。主人は旅行が好きで、夏休みになると私の家族ともよく国内外へ旅行に出掛け、車でも日本中を旅した。主人は私の実兄とも、本当の兄弟の様に接していた。優しくて、温厚で、誰とでも話が出来る人だった。姑の実家がお寺で、小学生の頃は袈裟を着て檀家を回っていたそうだ。温厚なのは、そういう育ち方をしていたからかもしれない。夫婦喧嘩をする事もなかった。私は記憶にないが、周囲に「一度家内を泣かしたから、もう口げんかはしないよ」と漏らしていたそうで、本当に家族想いな主人だった。主人は50代後半から定年まで日立製作所中央研究所に勤め、数々の研究をした。大学と違い研究費も時間も自由が利き、楽しそうに仕事をしていた。帰りも遅く多忙だったと思うが、家に仕事を持ち帰ることはなかった。定年後は趣味を楽しみつつ、晩年まで和やかに過していた。娘2人は音大を卒業し、現在も音楽で生計を立てている。孫も全員音楽関係。今の私は、自宅とアミーユ(サービス付き高齢者住宅)を行ったり来たりの生活。夕食はアミーユで摂り、夕食後を見計らって次女が車で迎えに来て、自宅まで送ってくれる。寝起きは自宅で、孫(長女の娘)と一緒に生活している。背中が曲がっていると「おばあちゃん、背中が曲がっているよ」と言ってくれ、朝は二人でラジオ体操をしている。皆さまから「勿体ない。2つも住まいがあるなんて」と言われるが、今の生活が便利で楽しい。
 今までの生活で一番楽しかったのは、「子供3人をきちんと育てた」こと。そして今、その子供達は色々助けてくれている。沖縄に住んでいた次女も最近府中に移り住み、長男も近所に住んで見守ってくれている。毎日温かい家族に囲まれ、幸せでメリハリのある生活を送れているのは、他でもない主人のお陰だと思っている。
 私が一番好きな時間、それは家族みんなが集まる、正月のひととき。

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