▲ 上記画像をクリックするとPDFファイルが表示されます。


コロナ渦においても例年並みの出席率に戻り、体調を崩される方もおらず、落ち着いた生活ができています。検温は非接触の体温計で測るようになった関係で、今までの腋下式より体温が高く出る傾向があります事をご了承おきください。また、インフルエンザの予防接種が始まっています。今年はかかりつけ医で是非受けてください。

それは、丁寧に生きること

 生まれは、伊予柑の産地で知られる愛媛県伊予市。伊予は松山駅より電車で10 分、瀬戸内海沿いの街。温暖で日当たりのよい山間部で育った伊予柑は「おいしおまっせ!」。父は沿岸の藻に棲む魚やカニを採る漁師で、母は父から大久保彦左衛門と称される事もあった、やさしく強い専業主婦。私が5人兄弟で一番上の長女。下に妹3人と弟1人。母からは「妹や弟が見ているから、ちゃんとしなさい」「人から指を指されるような事をしてはいけないよ」と、口癖のように言われて育った。尋常小学校半ばの昭和12 年に日中戦争が始まり、近所の方や友達のお父さんが支那の戦場へ出兵して行った。すると授業中に虎の『千人針』を縫うための日本手ぬぐいが回ってきた。わたし達のクラスは寅年の子が多く、寅年の子は年齢と同じ数の11 針縫う事が出来たため、他のクラスよりも針が進んだ。そして昭和16 年に大東亜戦争が始まり、バケツでの消火訓練や竹槍の授業も受けた。母方の実家が農家だったこともあり、米や海産物は手に入りそこまで困窮した記憶はない。昭和20 年2月の夜、空襲警報と共に数えきれない数のB29 が飛来した。松山市街へと次々に爆弾を投下し、爆弾が地表に落ちると瞬時に火の海が広がった。
 戦争が終わって間もなく、知り合いの美容師から「素人でいいから、手伝いに来て欲しい」と言われ、美容室の仕事をしばらく手伝った。仕事が楽しくて美容師免許が欲しくなり、松山市の美容学校に1年、インターンを1年して念願の美容師として働くようになった。パーマを掛けるのが好きで、昭和27 年ごろまで電気パーマをよく当てていた。今でもピンカールをして髪型を整えている。二十代も後半に差し掛かった頃、母から「下に4人もいるから早く結婚を」と急かされ、美容師の先生からの紹介で昭和29 年にお見合い結婚した。主人は“真面目な人” という印象の34 歳、私が28 歳の時だった。関門海峡ほとりの福岡県門司市で新婚生活を始め、門司の美容室に勤めるようになった。そして、一人息子が小学校へ行くようになった36 歳の時、念願だった自分の美容室を開店させた。まだ美容室が少ない時代だったので、大勢のお客様に恵まれた。14 歳年下の末妹を呼び、何人か雇って仕事を回した。八幡製鉄所が近かったので、ご主人が製鉄所に勤める奥様方や、日本銀行・住友銀行員の奥様方、スナックやバーで働く方々など華やかなお客様が多く、色々な事を学ばせてもらった。大阪万博やバブル景気の時は特に活況だった街の発展や、時代の移り変わりを見守り、その美容室も73 歳の頃に閉店させた。主人も同じ頃に食料品店の仕事を辞め、その後は特に仕事もせず、二人でのんびりと北九州での生活を楽しんでいた。
 結婚して府中に住んでいた一人息子は、企業戦士としてコンピュータ関連の仕事に追われる忙しい日々を送っていた。その息子が不調との知らせを受け、病名を聞いた時は目の前が真っ白になった。息子は癌により45 歳の若さで亡くなった。嫁が39 歳の時に、二人の孫を残して。息子の遺言は「両親を頼む」だった――。それから十数年の月日が流れ、平成27 年に北九州から府中に越してきた。腎臓病を患っていた主人が、医者から「あと何年も持たない」と言われた事を受け、嫁が「直ぐ来るように」と言ってくれた。私が89 歳、主人が94 歳の時だった。その1年後、府中で95 年の生涯に幕を閉じた主人。よく頑張ってくれたと思う。翌年からデイサービスへ通うようになり、今も嫁と二人で暮らしている。何もかもしてくれ、何の心配もいらず、足りないものは何も無い。嫁との生活も5年になったが、争った事は一度も無い。一生懸命にしてくれているのが分かるので、本当に幸せ。人に恵まれ、幸せな人生だ。もともと、人とは価値観が違うものと認め、仮に意見が合わなくても言い争わないようにしている。
 妹2人は2年前に亡くなり、弟も3年前に亡くなった。今は、14 歳年下の末妹と私のみ。妹は今も北九州市に住んでいて80 歳になった。誕生日に電話を掛けあったり、お歳暮を互いに贈りあったりしている。私は主人がまだ元気な頃に肺炎で一度だけ入院したが、それ以外病気らしい病気に罹ったことがない。デイでも竹踏みを積極的に取り組み、お弁当もおいしく全部食べられている。杖無しで多摩川の河川敷を散歩する事もでき、幸いな事に目も耳も良く、字を書くのも好きなので、デイで歌った曲をノートに書き留めている。毎日ではないが、要所要所で日々の出来事を日記に書き留めてもいる。“ももたろう” は次々と催し物があり、飽きることがない。私も94 歳になるが、いつまでも元気に“ももたろう” へ通え、“ピンピンコロリ” と寝込まないようにしたい。これが、本当の願い。

0