▲ 上記画像をクリックするとPDFファイルが表示されます。


いくつもの現場で、様々な経験を積んだ女性看護師が新しく入社しました。先日、ご希望された方の耳の穴を見てもらいました。ご自分で耳垢を取ることが難しい方も多く、「聞こえが良くなった」と笑顔が溢れます。月曜は『笑いヨガ』の指導もしてくれ、とびきりの笑顔をつくる看護師さんです。笑っていると、身も心も温まりますよ。

樺太に生まれて ( 後編 )

 戦後、17 歳の時に引き揚げで初めて上陸した北海道にて、新しい生活が始まったー。
 樺太から持ってこられた荷物は、1人につき30kg。国の政策で移住し、家も土地も失ったのに、国からの給付金は今の価値で1人10 万円程度が一度だけ。上陸後、一時的に寮での生活を送り、開拓のため家族12 人で夕張へ移り住んだ。山2個分の土地が割り当てられ、樺太と同じように開墾するとお金が貰えたが、それだけで大家族を養える訳はなく、父は木工場へアルバイトに出ていた。人には言えないような苦労を重ね、20 歳で“口減らしのために”結婚。夫は炭鉱で働く事務職員で、身体は弱く痩せていたが、夕張炭鉱のマラソン選手に選ばれ、東京へも遠征に行くほどだった。子供は男の子2人を授かったが、まだ子供が小さい頃に、夫は結核で亡くなった。腸チフスの時と同じく、私は免疫が強いのか罹る事は無かったが、当時結核に薬は無く、罹れば多くの人が亡くなる病気だった。
 27 歳の時に再婚。再婚相手は近所に住む7歳年上の美男子で、姑がいたく彼を気に入ってしまい「是非、結婚して!」と言われた。私は再婚だし、下の子が小学校1年生で、姑も居るため気が進まず「無理だ」と言ったのだが、2人の子供と姑を気持ちよく迎えてくれたため、結婚する事になった。小樽の資産家の息子で育ちが良く、頭も良いエンジニアだった。大変優しく、なぜ私と結婚してくれたのかわからないほど。その夫との間にも2人男の子をもうけた。そして千歳の親戚宅を一部改築し、食堂と居酒屋を開店させた。私はお酒が飲めず、肉も食べられないのであまり楽しい仕事ではなかったが、お客さんの殆どがアメリカ軍人。当時、様々な基準を満たし、英語などの試験に合格した飲食店だけが【秀】のマークを掲げられ、アメリカ軍人はその店でしか飲食できなかった。そのため連日連夜店は賑わい、毎月1日のペイデイの夜は、みかん箱が札で一杯になる位の売上があった。しかも当時、ボストンバッグに札束を詰め込み、日本全国を渡り歩いては各地で賭博をする人達がいた。もちろん違法なのだが、賭博用に部屋を貸すと一晩で200 万円を置いて行く事もあった。そんなこんなで、その頃はお金に困る事も無く、主人から給料を入れてもらった記憶が無い。かといって貯め込むことはせず、遊びや、困っている人にお金を貸してあげて手元には残らなかった。
 4人の子供達を北海道で就職させるのは不利と考え、一番下の子が小学生のうちに府中へ越してきた。白糸台の酒屋が経営する寮に寮母として3年勤め、その後独立。色々な仕事を経て、47歳から定年まで国分寺に支社がある保険会社に就職した。外交員として歯科医の団体を中心に生命保険を売り、月の給料は100万円を越えた。仕事は楽しく、会社の仲間から外国旅行や沖縄旅行へ誘われたが、何しろ酒も飲めず肉も食べられないので行かなかった。今となっては仲間と沖縄へ行かなかったことが心残り。東北は好きで主人ともよく行った。空気が綺麗で食べ物は美味しいし、人情がよい。本当に好きな場所。そんな主人も76歳で亡くなった。亡くなるまでの4年間、月2回往診に来てもらい、自宅で介護した。最後の4 ヶ月は歩けなくなったためポータブルトイレで用を足したが、何しろ男の人。重くてお尻が持ち上がらないので、天井から綱を延ばしてそれに掴まってもらい何とか介助した。最後まで会話が出来、本当に優しくて良い主人だった。
 13年間保険会社に勤めていたので、今はその時の年金で生活している。デイに着て行っている洋服は、当時買ったものばかり。現在はマンションに2人の息子と一緒に生活していて、洗濯から料理まで全てしてくれている。他の2人の息子たちも府中市内に住んでいるので、何かと心丈夫。4人の息子たちは大変仲が良く、ケンカしているのを見たことが無い。子供とは、家庭で出来上がっていくもので、学校や社会が育てるのではない。最近は子供に甘い親も多いが、悪い事は悪い・良い事は良いと伝えなければいけない。それは、自分の子でも他人の子でも同じで、何も言わない大人は無責任だ。嫌われたっていい、苦言を言える大人がいないと、世の中は段々悪くなっていく。元気で楽しく生活するには、まず世を良くしていかなくては。実は、“ももたろう” の他に大きなデイにも通っているが、そこで私は嫌われている。食事やスタッフの態度、体操ばかりのレクに至るまで苦言を呈し続けているからだ。良くしたいから言い続けているのだが、変わっていかないのならば全て“ももたろう”へ移るつもり。仕事は嫌々やるものではなく、辛くとも笑ってやっていれば周りにも伝わり、空気が変わっていくもの。“ももたろう” は“押絵” が楽しく、お昼も美味しい。いつも笑って生活している。
 私の座右の銘は「頑張り努力すれば、出来ないことはない」だ。波乱万丈な人生も大変だったが、楽しかった。苦しい経験を積んだ人は、先が見通せるようになり、人生は豊かになっていく。最近は“寂しい” や“悲しい” と思う事も無い。さんざん経験したのだから、もう楽しい事しか残っていない。89歳、まだまだ元気。もう一度、故郷の樺太に行ってみたい。

0