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月に1回、ももたろうのスタッフが、可愛いワンちゃんを連れて来てくれます。撫でたり、抱っこしたりするのですが、とても大人しい子です。皆さま大変喜んで下さり、ある方は涙を出して喜びを表現してくださいます。普段はあまり表情が無い方も、自らワンちゃんの側に来て笑顔で撫でている光景は、アニマルセラピーの凄さを感じさせます。
新米看護師は58 歳(前編)
生まれは福島県の山間部、周囲を山と畑に囲まれた人里から少し離れた山奥。物静かな両親は農家を営み、主にコメと煙草を作っていた。私は9人兄弟の一番末っ子で、一番上の兄とは20歳以上離れていた。そのため、兄弟と遊ぶよりも歳の近い長男の甥や姪とよく遊んでいた。小中学校は家から30 分程歩いた集落の学校へ通い、中学では卓球に精を出し県大会まで進んだ。高校も卓球部に入ったが、途中でやめた。何しろ学校から家までは数少ないバスで1時間もかかったので、部活をして帰ると道が見えないほど暗くなってしまう。周囲に家は無く、夜になると遠くに一軒の明かりが小さく見えるだけで、当然街灯なども無かった。夜に酒好きの父から酒を買ってくるよう言われると、嫌とは言えずに片道30分の真っ暗のあぜ道を懐中電灯片手に歩いたものだ。あぜ道には大きなヒキガエルや蛇がいた。田舎育ちだが大の爬虫類嫌い。あぜ道の真ん中にヒキガエルがいたら飛び上がるほど嫌いだった。カエルや蛇がいなければもう少し田舎暮らしを続けたと思うが、高校卒業後は早々に東京で暮らす姉のところに居候し、しばらく世話になった。
東京で仕事を探すべく職安へ行くと「一番多い求人はパーマ屋さん」と言われ、住み込みで働ける足立区の美容室に就職し、働きながら美容学校に通った。最初の2年間は、経営者のお子さんを保育園に送り迎えし、家の掃除、買い物などの雑務をした。美容の仕事は「見て覚えろ」の方針で、徐々に仕事をさせてもらいながら10年ちょっと勤めた。その後、山野愛子さんの息子さんが立ち上げた美容室で2 ~3年働き、次は西新宿の歌舞伎町にほど近い美容室の店長を任された。有名人や水商売の女性が毎日のように来店し、2~3人のスタッフと共に毎日忙しく仕事していた。土地柄もあり大抵は“つけ払い”だったため、何度も自宅を訪ねてお金を回収するのも大切な仕事だった。それでお金が貰えればいい方で、常連が急に来なくなって逃げられたり、信頼していた若い女性スタッフがレジからお金を盗んで消えたりと散々だった。社長から「管理が悪い」と言われ、半分はポケットマネーで弁済した。
30代半ばで結婚し、結婚を機に美容師の仕事は辞めた。お姑さんと一緒に生活するようになり、すぐに長男を授かるが、夫は大変なマザコンで何でも姑の言うことを信じて疑わなかった。姑がテレビショッピングで次から次と品物を買い、支払いは全部私。夫に相談しても「何も楽しみがないのだから、そのぐらいは我慢しろ」と。玄関のカギもしょっちゅう失くし、何度も取り換えた。これが認知症の始まりで、その後“物盗ら妄想” が酷くなっていった。姑は近くの交番に何度も駆け込み、衣類から鉢植えまで何度となく被害を訴えるようになった。タンスの中に大きな字で「ドロボー、持っていくな!」と書かれていた。最初は近所の方への被害妄想から、次第に私が盗った事になっていった。「物がなくなった。盗ったのは、あんただ!」と言われ、姑とは離れて住むようになった。姑は一人で生活できる訳でもなく、夫も面倒は見ない。仕方なく息子に言い聞かせて食事を運ばせるようになり、しまいには姑と一緒に住まわせて小学校へ通わせた。息子からは何度となく電話で泣かれ、窘める日々。姑が入院すると、夫は私に毎日見舞いへ行くように言い、意見するも聞き入れる事は無かった。仕方なく息子に調理を一通り教え、息子に娘の子守も任せて病院へ通った。正月が迫るころ、姑を“一時帰宅させたい” とまた夫が言い出し、姑を正月の2泊3日自宅に戻した。その間も夫は遊びに出掛け、息子や娘と共に何とか世話をした。姑が病院で息を引き取ると、息子は「お母さん、もう離婚してもいいよ」と言ってくれ、踏ん切りがついた。こうして40代前半に家庭を犠牲にした8年間の結婚と介護の生活に幕を下ろした。夫から逃げるように夜逃げ同然で引っ越し、滑り込みで何んとか都営住宅へ入居できるよう奔走した。数年前に両親からの仕送りを貯めて買った代々木駅前のマンションも、都営入居のために権利を放棄した。
永山の都営住宅で母子3人での生活が始まり、仕事は介護士として高尾の精神病院に勤めるようになった。仕事仲間は若い人が多くそれなりに楽しかったが、看護師さんは私たちを顎で使った。看護師さんは手が空いているのに「やっておいて」と指示だけ出してあまり働かず、それでいて給料は私達よりうんと良かった。そんな看護師の姿を見て、介護士仲間の一人から「一緒に看護資格を取らない?」と誘われた。しかし、私はもう50歳を過ぎていた。どう考えてもついていけないと思い、今さら入学試験を受ける気にはならなかった。翌年、仲間の介護士が看護学校の入学願書を持ってきてくれた。考えた末、通学圏内の6校全部受験することにした。受験料は1校1万円。過去問を解こうにも何も解らないため、塾に通う事にした。仕事帰りに寄れる西八王子の塾3校に出向き、入塾させてもらえないか頼み込んでみたところ、2校はその場で断られたが、1校は数日後にOKを出してくれた。こうして職場帰りの1時間半、小中学生が通う塾に半年通った。最初子供たちはびっくりしていたが、勉強を教えてくれる仲になり、40年の歳の差を乗り越えて友情が生まれた。