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産休を取っていたスタッフが5月より復帰し、皆さまに紹介すると「嬉しいわ!ありがとう!」というお声をよく聞きます。また、今年になって若いスタッフも加わりました。「わー若い!」という声の他に「幸せだわ!」と、世代を超えた交流を喜んで下さいます。とても良い言葉ですので、私も負けないように頑張りたいと思います。

学びながら生きてゆく

 生まれは、福島県会津若松。“東京に空が無い”で知られる高村幸太郎の妻・智恵子さんの生まれた所。白虎隊としても日本中に知られている。ここは母の実家で、おばあちゃん、おじいちゃん、叔父さん、伯母さんと共に、母、兄、私、弟がお世話になった。夕食には、いつも12・3 人が集った。公務員として単身赴任していた父が職場近くの東京杉並に家を建てたため、小学校1・2年の頃に福島から東京に転居し、家族5人で住むようになった。母は病弱で寝たり起きたりの生活をしていた。その為、数カ月に一度、母方の伯母や叔父が福島からお米や野菜を背中にしょって、料理を作りに来てくれた。小学校は地元杉並の公立校に通ったが、言葉がズーズー弁で「田舎者!」とバカにされ、3歳下の弟と共によく泣いていた。弟が泣いて帰ると、勝気な私は「この野郎!弟を泣かせたのは誰だ!」と言って相手に手を出した。一人で悪ガキ何人も相手にする為、必ず負けたがその場では決して泣かなかった。兄は気が弱く、サーっと逃げてしまう。何度も喧嘩しているうちに段々強くなっていった。小学校高学年からは、毎月父から1か月分の生活費を渡され、兄と共に日割り計算をして生活した。常に金欠ではあったが、おかげで計算能力は高まっていった。福島から届くお米はいつもあったため、食事の中心は米だった。学校の給食制度が始まるまでのお昼は、おかずの無いお弁当を学校には持って行けず、家に戻りオニギリやアンパンを食べて学校へ戻っていた。いつもお腹は空いていた。中学校に進学すると帰宅も遅くなるため、弟の軽い夕飯としてオニギリを作って置いていた。

 父は口癖のように「一生懸命勉強しろ、大学まで行かせてやるから」が口癖だった。兄を習い、勉強が好きで負けず嫌いな私も、図書館に籠って人の倍ぐらい勉強していた。しかし、高校へ進学して間もなく、父の口癖は兄と弟に向けられた言葉であり、女である私は大学には行かせてもらえない事を知った。もっともっと勉強がしたかった私は、“もしかしたら” の可能性に掛けて勉強を続けた。結果として、兄は国立大学に、弟は私立大学に進学し、私は高校卒業後に社会人向けの研修を手掛ける会社へ就職した。母は入退院こそ減ったが、依然身体は弱く家事は私が全部していた。給料袋は封を開ける前に父へ渡し、小遣い程度のお金を受け取った。洋服も買わず我慢の生活だったが、お金を出せばおいしい昼食が食べられたのが幸せだった。服は殆ど貰い物だが、冬のボーナスでやっとオーバーとズボンを買った。兄も体形に合わないだぶだぶの服をいつも着ていた。同僚は素敵なスカートや洋服を着ていて、「お金に困っているんだろう」と噂されたが、堂々としていた。

 この会社の研修とは、アメリカやイギリスの研究論文や書物を数カ月間かけて学ぶもので、見込みのある社員が会社から送り込まれて研修を受けていた。受講生は優秀で有望な人ばかり。講師も東大教授などの立派な面々で、私の知的好奇心を満たすには最適な職場だった。4歳上の主人になる人も受講生で、何度目かの研修で親しくなった。そして24 歳の時に結婚。主人は、府中の農家に生まれた、勉強が好きな人だった。しかし義父は「学問なんて必要ない!」と言う人で、私には何も言わなかったが、主人も色々と苦労したらしい。中学生ぐらいから、日中の農作業を免除する代わりに、朝4時から畑の草を抜いて学校へ通っていたそうだ。7人兄弟の3人が高校まで行き、主人だけが大学へ進学した。兄弟の目の届かない地方の国立大学へ通い、大学卒業後は会社に勤め、何年かたって高校の教師になった。私は、結婚後も30 歳ぐらいまで研修センターに勤めた。主人の実家は大きな農家だったので、兄弟に農地を分割した際、主人には敷地端っこに小さな土地を分け与え、6畳と4畳の小さな家を建ててくれた。結婚しても持っていくものが無かった私に、おばあちゃんが「最初から家具はなくてもいいんだよ。段々、買い揃えれば」と、優しく言ってくれた。お礼のつもりで、時間がある時は畑の草とりなどを手伝った。主人の一番下の兄弟でただ一人の妹は、色が白くきれいだった。兄弟はその妹を大切に可愛がっていたせいもあってか、優しく思いやりがあった主人。「子供には教育を!」と言う人で、2人の子供は大学と専門学校へ進学した。

 義理の父がしてくれたように、子供に家を建てるべく夫婦で仕事を頑張った。主人は定年退職後も5年位教職につき、その頃から翻訳の仕事をはじめた。実際にヨーロッパに行って空気を肌で感じてほしいと思い、ノルウェーなど北欧へ一緒に行ったりもした。翻訳は納期がある仕事なので、いつ寝ているんだろうと心配するほど夜中まで仕事をしていた。疲労が重なったのだろう。5年前に体調を崩し、入院して1週間で亡くなった。主人が亡くなってから、友達とドイツ・フランス・ギリシャ・イタリア・トルコに2度にわたって行った。ドイツには同い年ぐらいのペンフレンドがいて、ドイツ人は日本人と似て勤勉で地味なところが好き。

 何事も一生懸命にした私の人生は、現在81 年になる。今年に入ってから週3日“デイサービス ももたろう” に通っているが、まだまだしたいことがたくさんある。国内やヨーロッパへ旅行もしたい。朝夕は毎日散歩へ行っていて、そのついでに買い物もしている。同じ敷地内に娘の家族が住んでいて、夜になると「ごはんできたよー」と電話がかかってくる。娘とお婿さんは大変優しく、娘宅にお邪魔して一緒に夕食を摂り、今日あったことを話し合うのが日課。本も伝記物をよく読んでいた。目が悪くなって図書館へ行くのが億劫になった今では、デイの仲間から人生の物語を聞くのが好き。人の人生を知ると、ぼーっと生きてはいられない。何事も、知っているのと知らないのとでは大違い。知ることとは、こんなにも楽しい。