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2024 年・令和6年が始まりました。本年も“ももたろう” をよろしくお願いいたします。4日の初日には皆様お休みなく元気に来て下さり、「健康が一番!」という元気な声が聞こえてきました。  ★お願い★ コート類や靴に記名頂けますと幸いです。新しく新調された方もありますので、ご協力お願いいたします。

バカになりなさい

 愛媛県に生まれ、父は大きな果樹園を営んでいた。兄弟は兄2人、姉1人の4人兄弟で、私が末娘。末娘だからか、他の兄弟と比べ肌が白いからか、母は私を大変可愛がり、どこに行くにも私だけ連れて行ってくれた。私は掃除も家事も一切しなかったが、兄は果樹園の手伝い、3歳年上の姉はいつも家の掃除をしていた。母は芸者さんだったようで、三味線が上手だった。一方で母は読み書きができず、小学生低学年の頃から、私が “ひらがな” で手紙を代筆していた。小学3年生の時、母は実母ではないことを知る。実の母は私が2歳の頃に結核で亡くなったそう。だから実の母の顔も声も覚えていない。高等学校へ行ったのは、4兄弟のうち私だけ。母は反対したが、兄達が頼み込んで進学させてくれた。いつもニコニコ笑って悪口は絶対に言わない。飾らない、頭を下げる、偉ぶらない。そんな私を見てか、先生に好かれていた。友達も多く、私のノートは良くまとまっていると評判で、他のクラスでも回覧されていた。自分で美人だと思った事はないが、町を歩いていると、道行く人が立ち止まって顔を見られたりもした。

 高等学校時代の土曜日は、叔母が経営する松山市のサロンへ行くのが日課だった。銀行員の経歴を持つ美人の叔母は、教員を辞めて自宅にサロンを開いた。外から見ると普通の民家だが、ここは地元のお偉いさん方が、麻雀やお酒、料理を愉しむ隠れ家的な社交場だった。集う人はみな紳士的で、私は麻雀をする訳でもお酌をする訳でもなく、会話といえば挨拶程度でただ見ているだけだった。高等学校卒業後、サロンの常連だった松山三越の社長さんの伝手で、松山三越に就職しネクタイを売った。ネクタイはよく売れて表彰もされ「何でも一生懸命にすれば、相手に届く」と知った。5年勤めた後に、常連の院長先生の伝手で病院受付の仕事に就き、2年位勤めた。その後結婚し、東京を経て福島県いわき市に移り住んだ。いわきにはそれまで無かったドライブインやバーを主人と共に何件も開店させ、どこもとても繁盛した。30 代で小さな喫茶店を開店すると、常連になったお客さんがたまたま銀行の頭取で、その方の伝手でいわきに広い土地を買った。畑だった何もない土地は次第に発展し、いい値段で売れた。商売は何をやっても成功し、お陰で大きな家も建てた。30 年前に海岸のそばの観光物産センターに店を出し、“いかめし” を作って売るようになった。毎朝自分で仕込みをした“いかめし”は飛ぶように売れた。この満たされた生活は、あの3月11 日で終わった。地震後に津波が押し寄せ、お店は全て流された。色々あっていわきを離れ、娘がいる府中に越してきた。現在はケアマネさんや“ももたろう” のお世話になりながら、一人でアパートに住んでいる。

 姉と私は、天と地ほど母からの扱いが違った。なぜ違ったのかはわからないが、小3まで実の母と思って甘えていた違いだろうか。それとも、実の母を知らない代わりに恵まれたのだろうか。姉が甘えているところは見たことがない。ちなみに姉は、結婚後には幸せな家庭を築き、娘さんは松山で一番の富豪と結婚した。私も普通にしていただけなのに、偉い人から好かれ、多くのチャンスを得た人生。なぜ好かれたかわからないが、嘘をつけない性格で、媚びも売らない。欲や下心が無かったからなのかと思う。欲は未だに無い。お金が欲しいと思った事も無いが、必要な時には自然と目の前にあった。商売するまでお金のありがたみがわからなかったが、お金を大事にするようにもなった。「金は沸き物」とも言うが、それは嘘。お金は自分の努力で手に入れるものであって、沸いてくるものではない。その証拠に、他の店にお客さんがいなくても、私の店はいつも行列が出来ていた。ほかの店から聞こえる挨拶を聞き、あれではダメだと思った事がある。声は大きいが、心がこもっていない。たくさんの店から選んでくれた事をもっと感謝しなくてはいけない。購入金額ではなく、買ってくれた・選んでくれた事に対する感謝の気持ちを持ち、千円でも百円でも「ありがとう、またどうぞ」と笑顔で挨拶する。口先だけじゃだめ。いつも同じ笑顔で分け隔てなく。また、どんな職のひとにも「ご苦労様」と心から労った。生きていくことは大変な事なのだから、一人一人、皆えらい。

 誰に教えられたことでもないが、バカにならねば商売にならぬと悟った。バカになるとは、自分や自分の考えを度外視し、分け隔てなく相手と対等になることを意味する。頭で考えていては動けないことも、バカになれば何でもできる。バカになる事はとても難しいが、尊く喜びのあること。そして、下心は持たず、夢を持つこと。私も商売の事や家を建てることなど、いつも夢を持っていた。大変なこともいっぱいあった。「まったくもう」「こんちくしょう」と思う事もあったが、バカになってすぐ忘れるようにした。忘れるって大事。たとえ思い出しても、忘れた事だからもういいや、と深追いしない。お店でお客さんと話す時は真剣にしっかり聞くが、「前にも聞いたよ」なんて顔をしないために、内容はすぐ忘れるようにしていた。最近は何でもよく忘れるが、忘れるから生きていける。忘れなければ、人生は苦しすぎる。

 幼いころに結核で母を亡くし、私も2年間結核で辛い思いをした。顔も知らない母だけれど、確かな繋がりを感じる。私の結核を診てくれたのは、後に叔母の店の常連となる結核の名医と言われる先生だった。いつも母が護ってくれていると感じ、仏壇には今でもお茶とお線香は欠かさない。そんな私も、もうすぐ89 歳になる。好きな事をして生きている、今が一番幸せ。本当よ。

(今号は令和4年4月号『寄せては返す波のように』を加筆修正しています)