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「鈴木さん、おはようございます!」と、来所時にお一人お一人の名前を呼びながら元気に挨拶しています。皆さまから笑顔がこぼれ、嬉しそうにされます。着席されてから周囲の方とのお話しも、早く盛り上がるようです。おうちでも「おばあちゃん」や「おかあさん」ではなく、「ようこさん」等、お名前で呼ばれたらどうでしょうか?

交わる≠混ざる

 生まれは、四国・香川県坂出市。5人兄弟の2番目で、上に姉がいた。父は畳屋だが、大きな土地を持ち小作人に作物を作ってもらい、お金に困る事はなかった。家も大きく、大きな蔵があるのがちょっとした自慢だった。父も母も言葉遣いが丁寧で、穏やかな人。私ものんびりした性格で、昔から人を疑わない性格だった。小学校低学年の頃に日中戦争が始まった。小学校へは天皇陛下の銅像に敬礼して登校し、教室では修身を先生が読んでくれた。勉強は40 分授業をみっちりとした。兵隊さんを送るために旗を振って見送ったりもした。天皇様様、兵隊様様の時代だった。この時代、人さらいが身近でも起きていた。集団で登下校するように言われていたため、学校から3人位で一緒に帰り、友達の家に寄ってお茶を飲んで帰るのが日課だった。

 ある日、登校するため数人で歩いていると、一人の男性が自転車に跨ったままこちらをジーっと見て「お母さんが怪我をして市立病院に運ばれた」と声を掛けてきた。男は、先生にも既に報告してあるという。あわてて一人で自宅へ帰っている途中に、一人で登校している姉を見つけ、息を切らしながら説明するも「嘘だ!」と一喝された。母は元気で、家にいた。昭和16 年、13 歳の時にアメリカとの戦争が始まった。進学した女学校は午前中に勉強をして、午後は体育の授業になった。体育ではなぎなたや縄跳び・鉄棒などの練習をした。勉強は、修身・化学・数学・国語(偉人の物語)で、英語は無かった。私は国語が好きで、少女雑誌もよく読んでいた。学校が終わると、近所のお年寄りの家に行って家事を手伝った。友達は軍需工場へ行きミシンを踏んでいたが、私は楽な仕事を選んだ。昭和20 年の真夜中に、実家から10 キロほどしか離れていない高松市へ空襲があった。焼夷弾の明かりを「きれいだね」と言ったら、母から「そんなことを言ってはダメ」と怒られた。戦時中は何かとごたごたしていた。小作人の一人が妻を亡くし、それからその人は盗みを繰り返すようになった。何度正しても直らず、その人の母親を保証人に据えたが、また繰り返す。父がなぜ繰り返すのか問い詰めると「食いっぱぐれがない」との言葉。住んでいる世界が違うのだと愕然とした。

 女学校を卒業し、女の子もどこかへ勤めなくては「サーカスに売られる」と言われ、市役所の出生係に1 年勤めた。その後は茶道や花道を習い、洋裁店を持ちたいという夢があったため20 歳の時から洋裁学校にも2年間通った。ここは、お金持ちの子ばかりが通い、一番高くて性能の良いアメリカミシンが使えた。洋裁は製図から立ち上げてアメリカミシンで縫い、とても楽しかった。そして、24 歳の時に最初の結婚をした。叔母が紹介してくれた人だったが、結婚すると借金がいっぱいあるとわかった。結婚生活を続けることができず、26 歳の時に離婚。その後、大阪で知り合った男性と27 歳の時に結婚した。口の上手い人で顔も良く、乗せられてしまったところがある。実は親戚の警察官に結婚の相談をしたところ「やめておけ」と止められたのだが、やすやすと男性と知り合える性格ではない。反対を押し切って結婚し、夫の住む家に移り住むも、その時に家が借家と知った。買物へ行くと店の人に「借金ばかりしている人だよ」「よくきたね」と声を掛けられる始末。2人目の夫も方々に借金していたのだ。父は物事を良い方へ良い方へ考えてくれ、応援し、借金の肩代わりまでしてくれた。子供は女の子と男の子を授かった。生活は大変だったが、母の教えで“着るものや身なりはキッチリ” させた。その後も夫は蛍光灯を取り付ける仕事や、品物を売る仕事など様々な商売に手を出し、その為に5回も引越しした。苦しい時でも、近くに友達がいれば苦にはならなかったが、短期間で頼れる新しい友達が作れる訳もなく、子供の為と思って離婚はしなかった。父の応援や、反対を押し切って結婚した手前もあった。

 息子が小1の時に府中へ越してきた。その後、子供たちがある程度大きくなった頃、書類を全て預け、わずかな現金を握って新幹線の切符売り場に並んでいる私がいた。誰もいない場所へたった一人で行くために。「子供を置いてどこへ行く」と、心の声が聞こえて我に返った――。子供が私立高校に進学した時は実家から援助してもらい、大学に進学した時も授業料を援助してもらった。だから、父が亡くなり遺産を相続することになった際は「家が一軒建つぐらいもらったから」と相続を辞退し、他の兄弟で分けてもらった。夫は、私が66 歳、夫が64 歳の時に亡くなった。正直な話、ほっとした。その後も私は生きるために色々な仕事をして、人の何倍も苦労した。自分もお金で苦労したから、一度だけならと受けた保証人。だが、その人はどこへ行っても私の名前を出し、借金を重ねた。結局、見かねた娘が救ってくれた。

 何でも親の言いつけは守っていたのだが、結婚だけはそうしなかった。言うとおりにしておけば良かったと思う。そんな私のモットーは「人に迷惑をかけないで生きていく」こと。現在96 歳になり、“デイサービス ももたろう” へ通うようになって10 年になる。昔はトイレのマットを裁断から全部縫い、ミニタオルも刺繍して皆様に喜ばれ、嬉しかった。今は、目が見えづらいので出来ない。一時期はデイサービスへ行く事をためらう日も多かった。先日、実家の蔵を倒したと連絡があり、自慢できるものがまた一つ無くなった。だからどうということではないが、死ぬまでここに通おうと決めた。