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41名のお客様全員が女性で、年明けから現在まで、コロナ含め病気でお休みになった方は《ほぼ0》です。皆さまいつもお元気に笑顔で来所して下さいます。お昼は「いなり木」さんと「サンデーサンク」さんの2か所でいただいていますが、ほとんどの方が完食です。「食事」「睡眠」「笑顔」があれば元気に過ごせると実感しています。

与えるだけ与え、何も求めぬ

 生まれは埼玉県秩父市。花火を背に、山車の上で三味線の音色に合わせて踊る『秩父祭り』が有名で、私も7歳から日本舞踊を習って、お祭りでも踊った。秩父には『秩父セメント』の大きな工場があり、『秩父銘仙』と呼ばれる織物産業も栄えていた。稲作に向かない土地のため、代わりに桑を育て住宅の2階で養蚕をする家庭が多く、機屋さんも多かった。山の中でもこうした産業が発展していたため、町には活気があり、新潟から出稼ぎや入植者も多かった。父も新潟県の出身で、10人兄弟の末っ子。父は、大豆の加工業を営んでいた母の実家に婿養子として嫁ぎ、家業を引き継いで豆腐や納豆を作って売っていた。父は人の面倒を見るのが好きで、とにかく『人のために』『人を大事に』『人を育てる』人だった。枯れ木を拾って炊事に使い、電気冷蔵庫もない時代。冬場に川で作った氷を氷室に入れて保管し、夏の冷蔵庫を冷やすのに使った。その氷屋の運営が大変と聞くと、事業を買い取って業務を継続し、新潟から出稼ぎに来た小学校ぐらいの子が配達の仕事で父の店に寄った時は、大人と同じように菓子や茶を出し、少し遊ばせて帰していた。とにかく子供から老人まで気遣いを欠かさなかった父は、何かあれば頼られ、困れば手を貸してくれる人が大勢いた。東北と秩父の交易を主導したり、大豆加工組合の会合を秩父に誘致したりして、皆で力を合わせて秩父を良くしようと尽力していた。父の兄弟が鉄工所を興す際も、支援を惜しまなかった。そんな父のまわりには常に人がいて、夜になると毎晩のように宴会が始まる。酒が好きな父は豪快によく飲んでいたが、子煩悩でもあり、私たち三姉妹をとても大事にしてくれた。子供達をきちんと教育して都会へ送り出そうと、教育にも熱心だった。

 戦争中は空襲や銃撃を受け、防空壕に逃げ込む事も度々あり、亡くなる人もいた。そんな終戦間際、姉は患っていた肺結核のため18歳で亡くなり、時をほぼ同じくして、妹は4歳で百日咳のために亡くなった。近所に住む女の子ばかり、同時期に数人が同じように命を落とした。私を本当に可愛がってくれた姉、仲の良い妹までも亡くし、急に一人娘になった私。それが6歳の時だった。母は狂ったようになり、毎晩暗くなってから夢遊病者のように一人でお墓参りに沢まで渡って通い、父はその都度、暗い田舎道を探しに行っていた。戦争が終わると、秩父神社の裏に夜店が集まり、食料品から日用品まで取引されるようになった。父も人助けに精を出し、困っている人をまるで家族のように迎えていた。また、戦争の動乱で土地を手放したいという人がいれば買い取り、通りの端から端まで父が所有した時期もあった。銀行も父には気前よく金を貸してくれたようだ。それらの不動産は困っている人に貸したり、家を建ててやったりしていた。東京で食料が不足すると、豆腐などを沢山作っては卸して回り、戦後の10年ほどはとにかく忙しくしていた。私はというと、終戦の年から日本舞踊を習わせてもらい、じきに学校給食も再開された。新しくできた図書館で勉強するようにまでなり、生活は元に戻っていった。9歳年の離れた弟も産まれ、日舞の稽古で東京へ行く機会も増えた。東京は、上野駅のガード下や地下道、浅草駅前や雷門の下には白装束をまとった負傷兵や浮浪者がいて、その中には子供も多かった。小さい子供が改札で手を出して、おつりをねだるのは、ありふれた光景だった。駅のトイレや電車の中も汚れ、臭く暗い様は「人間の世界ではない」と感じたほどだ。“踊りに通う私” と彼らとの差に愕然とし、全ての元凶は戦争であり「戦争をしてはダメだ」とつくづく思った。

 中学2年までは秩父の学校に通い、東京の高校へ進学するために、中学3年から知人の伝手で千代田区の公立の中学校に通うようになった。高校は室内プールもある都立三田高校へ進学し、ここは元女子高のため女子が多く、皆よく勉強をしていた。父が建ててくれた墨田区の家から学校に通い、身の回りのお世話は高齢の女性を雇ってしてもらった。高校卒業後は栄養短期大学へ進学した。運転免許を取ると“ダットサン” を買ってもらい、父を乗せて熱海までドライブした。その父は50 歳頃に胃がんが見つかり、私が20 歳の時にあっけなく亡くなった。入ったばかりの短大を中退して秩父に戻り、しばらく店を手伝ったものの、食文化の変化から大豆加工業は下火になっていった。渋谷道玄坂の日舞の先生には通い続け、東横ホールや新橋演舞場でも踊った。

 結婚は25 歳の時。上京してから何かと東京の『チチブ電機』の経営者にお世話になり、主人となる人はここによく来ていた5 歳年上の人。クリーニング屋さんの一人息子で、大学の研究室で研究をしていた。結婚後に府中の日本電気へ勤めるようになったため、府中に家を買って移り住んだ。主人はマイペースでコントラバスが趣味だった。母親を3歳の時に亡くした一人っ子で、後妻に育てられた話を聞き「同情を愛情と間違えて」結婚した。今も一緒にいるのだから、まぁ良かったのだろうけれど。結婚後は日舞を教え、長男も生まれた。その後も子供はできたが、血液型不適合のため生まれて間もなく2人の子を亡くした。今一緒に住んでいる次男は、交換輸血で命が助かった子。医者から普通の子として生きるのは難しいと言われたが、普通学級に入れてもらい、毎日一緒に通った。「授業の邪魔をしない」「テストは別部屋で受ける」が約束だった。その後も府中の公立中学に通い、卒業した。高田馬場に良い教室があると聞くと、一緒に出掛けていき、この先一人で生きていくためには「お金が使えること」「行くべきところへ行けること」の二つが必要と感じた。電車に慣れさせるために、小さい頃から何度も京王線に乗った。その甲斐あってか、仕事はかれこれ30年近くスーパーに勤めている。「俺がいないと品だしをする人がいないから、休めないよ」と言い、電車に乗って一人でどこへでも行ける。数カ月前には、墓参りのために次男と二人で秩父まで電車で出かけた。

 現在、主人は89歳、私は83歳になった。定年まで大学教授を務め、今もパソコンの前に座って何やらしている主人だが、クックパッドを見ながら食事も作ってくれる。私は、週に1度“ももたろう” へ通い、楽しませてもらっている。ここは強制される事もなければ放任されるわけでもない、そんな雰囲気が丁度良く、所長さんの歯に衣着せぬ物言いもまた良い。『人のため』をいつも心の中に持っていた父の生き方は、今でも私のお手本だ。スケールが大きく人に好かれた父だが、「欲はかくな、掻くのは背中だけにしろ」と口癖のように言っていた。今思うと「背中を見せろ」という意味を含んでいたのかもしれない。欲や拘りを捨て、“どうでも良い事” を増やしていくと、しなくて済む、考えなくて済むことが増える。死ぬ間際には欲や拘りが一切無いのが理想だ。事ある毎に思い出して、少しずつ、捨てていきたいと思う。