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“ももたろう” では、熱中症対策として水分をこまめに一日1100cc 飲んでいただいています。まず到着してすぐ[お水100cc]。朝の飲み物にて[コーヒー・紅茶等200cc]。11 時には[麦茶100 ㏄]、昼食の[煎茶300 ㏄]、14 時[麦茶100 ㏄]、15 時のおやつにて[煎茶200 ㏄」、16 時[麦茶100 ㏄]です。皆さま夏バテもせずに大変お元気です。

大切にすること、されること

 日本橋高島屋のすぐ近く、日本橋2丁目に生まれ、日本橋で育った。ほとんどの買い物は高島屋か銀座で。今でも靴は銀座のお店で買ったものを履き、着ている服もそう。クリーニングに出して大切に使えば、良いものは長くもつもの。今の使い捨てのような風習は性に合わない。一人娘の母は日本橋で育ったしっかりした人で、三味線を弾き、和裁や仕立も上手だった。料理はあまり得意ではなかったようで、いつも女中さんが料理を作ってくれていた。千葉県出身の父を婿養子として迎え、父は日本橋で魚河岸をしていた。その関係もあって戦時中も食に困った事はなく、今でも刺身が好物。反対に肉類は嫌いで、鶏肉やハム・ソーセージは今でもだめ。6人兄弟で、私は上から2番目の次女。たった一人の男兄弟である弟が家を継ぎ、今も日本橋に住んでいる。今でこそビルの谷間になった日本橋だが、もとは下町人情あふれる街。ご近所さんと会えばすぐに立ち話が始まる気取らない街だった。

 あまり思い出したくないが、東京大空襲の夜は小学校低学年で迎えた。まだ小さな兄弟をおぶった母と手をつなぎ、火の無い方を目指して必死に走って逃げた。暴風が吹き荒れる火の中をただ走り、銀座2丁目のビルへ何とか逃げ込んだ。朝になって家のあった場所へ戻ってみると、「家を守る」と言って残った祖母とともに、全てが消えていた。地面から突き出た水道管だけが虚しく焼け残っていた。ぽつぽつとコンクリートやレンガ造のビルだけが残った日本橋。一緒に逃げた母と兄弟は全員無事だった。程なくして埼玉県のお寺に学童疎開した。40 ~ 50人ほどの児童が寺で寝泊まりし、勉強も草むしりもした。食事にも困った記憶はないが、一番嫌だったのは“雀の丸焼き”。当時は貴重なご馳走だったが、こっそりお墓に捨てに行ったのを女の先生に見られた。「あら、まあ」と言っただけで黙ってくれていた。同じ学校の友達や先生も一緒なので、辛いことはなく、むしろ楽しい思い出でもある。そして8月15 日、玉音放送を全員揃った広間で聞き、戦争は終わった。

 父は千葉県出身だったため、父が戦争から帰って来るまでの間、千葉の田舎町に家を借りて祖父と母と子供5人で待っていた。戦後しばらくして、父はシベリアから元気に帰って来た。それから日本橋の土地に家を建て直し、日本橋での生活に戻っていった。学生時代は再び輝きを取り戻した銀座にて、買い物やぶらぶらするのがとても楽しかった。母は近所の先生に長唄を教えてもらい、私も出稽古にて日舞を習った。当時出掛けると言えばせいぜい地下鉄で銀座へ行く程度。それ以上は「一人で行くな」と言われていたが、ハタチを超えてからようやく一人で永福町まで内稽古に通わせてもらえるようになった。そして23 歳の時に両親が決めた人と結婚。相手の方の実家は、都心に日本庭園含む数千坪もの地所を持ち、戦前まで料亭を営んでいた。自家用車が大変珍しかった、大正時代から自動車に乗っているような家柄の、一人息子。結婚した頃には料亭を畳んではいたが、姑さんからは何かにつけて「素人さん」と呼ばれた。主人は冷蔵庫・冷凍庫の管理の仕事をして、三人の子宝にも恵まれ幸せな生活を送っていた。しかし主人は42 歳の時、突然朝に亡くなった。私が39 歳の時だ。一人息子を失いショックだったろうに、舅と姑が私を本当の娘のように良くしてくれた。生活費も全部出してくれ、苦労はしていない。子育てが落ち着いてからは一人で海外のツアーに参加するようになり、ヨーロッパ・アメリカ・中国を旅した。従弟のお嫁さんが私の実家から日本橋川を挟んですぐの有名店の娘さんで、一緒に海外旅行を楽しむようになり、とても楽しい時代を過ごした。

 世田谷を経て、現在は姑さんが建ててくれた府中の家に住んでいる。“住めば都” で府中も住みやすく気に入っている。同じ敷地内に、長男家族・長女家族・次女家族と私の、7人で住んでいる。私の為に病院へ一緒に行ってくれる人・散歩についてくれる人・料理を作ってくれる人と、分担し世話してくれていて、本当に助かっている。みなが仲良く、本当に幸せ。私の6人兄弟も、全員元気にしている。以前は定期的に日本橋に集まっていたが、今は電話で交流している。現在87歳、まだまだ元気。自宅に理学療法士の方が週1回来てくれ、 “ももたろう”には週1日、今年の4月から通っている。近所の方とはあいさつ程度で付き合いはなく、外出する機会も減っていた為、ここでお友達ができてうれしい。皆さん上品で、とても良い人ばかり。所長さんの目配り・気配りも心地よく、お昼も美味しいため楽しく通えている。外で働いたことも、自動車の運転も、自転車にさえ乗ったことがない。そんな私の、苦労も無いとても楽しい人生は、これからも続いていく。

 「府中はいいところですよ。こんなにもいい所があるのですから。」