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先日、『さくらんぼ狩り』の下見に行ってきました。まだ「さくらんぼ用の桜」は咲いていませんでしたが、芽が膨らんでいました。手が届く高さの桜の枝ぶりを見ると、2 ヶ月後のさくらんぼ狩りが楽しみです。皆様にお話すると、目を輝かせて聞いて下さいました。1 点、現地スタッフの関係上、日程が6 月22 日(土)に変更となります。ご迷惑お掛け致しますが、宜しくお願い致します。

一度あきらめかけた命、 夢に向かって楽しく生きていきたい。

 81 歳の私が生まれたのは、昭和 6 年の夏。この年に満州事変があり、小学校に通い始めた昭和 13 年には支那事変が始まる。
 私たちは何かと「戦争の大事な申し子だから、何事も一生懸命にやりましょう」と校長先生やお偉いさんから耳にたこができるほど言われたが、この時は意味がわからなかった。今になって、戦争になくてはならない子供たちという意味がわかった。
 昭和 20 年 3 月 10 日の東京大空襲では逃げまどい、我が家の焼け跡に着いたのは朝もすっかり明けた頃。そして敗戦、アメリカの進駐。昭和 24 年、女学校卒業。空襲で焼けて校舎が無く、焼け残りの小学校の講堂での卒業式。
 今のように職業のあっせんも無く、翌日から花嫁修業。戦争には負けたけれど、青春が始まった。楽しく、賑やかな毎日。それと裏腹に上野駅の地下道には、戦争孤児や年をとった女性、赤ちゃんを抱いた母親が直にコンクリートの上で横になり、力のない目で私たちを眺めている。かわいそうでも急いで歩き去ったものです。
 猛烈なインフレで闇市では1升のお米が 300 円で売っている。ヤミならば、赤ちゃんのミルクから何でも手に入った。キチガイじみた時代。もう普通の生活はダメかと思った頃、縁あって主人と結婚。男の子 3 人に恵まれ、それなりに明るい日々を過ごす。神様のおかげか。空襲で亡くなった友達の導きか。
 子供3人は皆孫にも恵まれ、何不自由ない 79 歳の 6 月。夜中トイレに起きて、トイレから出る時に僅かな段差に足を取られて倒れる。額に 5cm ほどの傷。あっという間にあたり一面、血の海に。寝室で眠っている主人を起こしたら、ビックリした主人は絆創膏を持ってうろうろ。私の方が冷静で、自分で救急車を呼ぶ。搬送先の病院探しは次々断られ、「もうお国のお世話になるしかないわ」と思う。
 救急車で運ばれた病院で検査をしたところ、MRI で頭の小脳近くに大きな脳腫瘍を見つけて下さる。その後、杏林大学病院に移っての大手術。「もうこんなに生きたんだから死んでも良い」と思い、先生に手術をお願いした。12 時間かけ 10cm 大の腫瘍を無事取って下さった。術後は約4カ月の入院・リハビリを経て、“デイサービス ももたろう” に通うようになった。ここへ来なければ私は生きたままの廃人になったであろう。
 81 歳の今は、「せっかく助かった命だから楽しく生活したい」と、毎日楽しく過ごしている。今日は合唱、明日は習字と、好きなことができる身分。ありがたい世に巡り合って、本当に幸せな私の人生も、終わり近い。後に続く今の若者、生まれてくる幼子の幸せを祈るだけのありがたい身分。
 でも今は 1 人で外を歩けない。1 人でスタスタ歩きたいというのが私の夢。