▲ 上記画像をクリックするとPDFファイルが表示されます。


会話の中で「ボケない薬が無いかしら?」という事を良く聞きますが、私はすかさず“お水” を勧めています。1日2L水を飲むように言われていますが、是非1Lは水を。足にむくみのある方の多くは、水分をあまり飲まれません。いつも「薬だと思ってお水を飲んで下さい」と言っています。ももたろうの水は活性酸素を除去する浄水器を通った水。入浴前後とマッサージ後、薬服時に提供しています。

平和で安心した暮らしが、一番の幸せ

 私は、今82歳。旧制女学校最後の卒業生。父母、そして夫は沖縄出身ですが、私は東京で生まれ育ちました。父は国鉄職員で空手が趣味。妹も柔道をしていて、アメリカ人と結婚し、現在ユタ州に住んでいます。体育会系の家族ですが、私は運動音痴で特に何もできません。
 3月10日の東京大空襲は、遠くの方で赤く燃えるような景色が目に残っています。当時、杉並で生活していました。空襲警報のサイレンが鳴ると、近くの大人から「排水溝へ隠れろ!」と言われ、怯えながら身を潜める日々。4月頃、もう逃げるしかないという状況になり、両親は山梨県の遠戚に疎開するよう、どうにか手配してくれました。両親ともに沖縄出身のため、沖縄には親戚が多くいましたが、沖縄は戦闘の最前線。行けっこないのです。
 14歳の時に終戦を迎え、杉並の家も幸い残っておりましたので、そこで東京での生活を再開しました。女学校を卒業し、昭和27年の21歳で結婚するまで「警察で指紋を照合する仕事」に就いていました。正式には「国家地方警察 警察本部 刑事部 鑑識課 指紋係 索引業務」と言います。当時は軽犯罪や、ヤミ米購入者が食糧管理法の違反者として逮捕され、指紋を照合する作業が多くありました。私は各指紋に番号が振られたカードを次々にめくり、目で見て確認する作業を行っていました。ちなみに父も闇米を買っては、ビクビクしながら交番の前を通ったものでした。当時はそういう時代でした。
 “デイサービス ももたろう” で、昼食を食べるたびに感じることがあります。『欲しがりません。勝つまでは』と、耳にタコができるほど聞かされて育ち、美味しい物なんて食べられなかったのに、今の若い人は幸せだなぁ、と。だから、絶対戦争はしてはいけないのです。平和で安心した暮らしがどんなに幸せなことか、戦争はどんなにつらいことか、若い人に伝えたい。贅沢を言わず、普通に生きられる事が一番の幸せである事を知って欲しい。「毎晩、感謝と共に雨戸を閉める。普通が一番。」
 父が空手をやっていた影響か、嫌な人間関係はサラッと流しています。ですから、デイで「あの人がどうした、こうした」と言う話もききますが、私は周りの人との人間関係を大切にして生活しています。又、歩くことが健康の基本。接骨院やらに行くよりも、一日30分以上歩くようにしています。よく行くところは、市役所5階の食堂。眺めは良いし、ゆっくりと自分のペースで食べられるのが気に入っています。
 今は一軒家に一人暮らし。子は3人、大阪・金沢・横浜に住んでいます。横浜の息子が月に1回様子を見に来てくれ、娘は電話でよく話をしています。これからも一人で気持ち良く生活を続けていくために、なにより「火を出さない」事を肝に銘じています。泥棒は私一人被害にあうけど、火事だと近所に迷惑を掛けますから。忙しい朝はレンジだけで調理できるように、前々から準備しています。
 毎年6月第3水曜日にクラス会をしていて、毎年楽しみにしています。今でも20人位集まっています。私達の小学校は珍しく男女混合で、6年間クラス替えがありませんでした。ずっと同じクラスだったので、仲間同士の結束も強いのです。クラスは違いますが、詩人の谷川 俊太郎氏とは同期生で、彼は当時から目立った存在でした。お母様もハイカラで、参観等には洋装にヒール靴で来ていましたよ。