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府中の事業所でもコロナが出ています。幸い“ももたろう” では、今のところ出ていません。換気・手洗い・マスクの励行はもちろん、金曜日の外部ボランティアによる活動はお休みし、代わりに看護スタッフの黒野が『笑いヨガ』をしています。大変好評で、皆様“笑顔笑顔” です。「笑う門には福来たる」幸せに暮らしたいものです。

プリンセス・ストーリー

 生まれは八王子の川口村。八王子駅からバスで30 分ほどの川口川沿いにある村で、村長を祖父が務めていた。父は醤油の醸造業を営み、村で一番大きな1000 坪の敷地に、大きな家と醸造に使う蔵が3つあった。当時は長男が家業を継ぎ、他の男兄弟は外に出て働くのが普通だった時代。家族以外にも常に3人位住み込みの若い職人や、女中さんも数名働いていた。頑固だが子煩悩で優しい父のもと、私は7人兄弟の次女として生まれた。昭和18 年、川沿いに歩いて10 分の小学校へ入学した。戦争の真っただ中で、度々空襲があったため教室内でも靴を履いて授業を受け、空襲警報が鳴ると裏山の防空壕へそのまま避難した。2年生からは教科書すら手に入らなくなり、勉強はほとんど出来なかった。中学校入学の頃には戦争も終わっていたが、川口村にまだ中学校の校舎は無かった。歩いて行ける中学校は、午前中に小学生の授業を行い、午後にだけ中学生の授業を行っていた。父の配慮で八王子駅に近い横山町の中学校へ木炭車のバスで通うようになった。その中学校は制服が無く、女子はモンペ姿が多かった時代に、私は母がセルの着物をほどいて作ってくれたジャンパースカートを着て登校していた。紫と紺の太い縞模様。当時はまだ着るものが少なく、着られればよい時代だったため、羨ましがられた。教科書は何人もが使ったおさがりで、ボロボロになり字が読めない箇所もあった。

 高校は仙川の桐朋学園へ進学した。バスと京王線に乗って通い、八王子の家からだと1時間半は掛かった。始発のバスに乗ってもホームルームに10 分遅れてしまうため、しばらく八王子駅まで自転車で通っていたが、心配した父が学校に掛け合い、ホームルームの開始時間を10 分遅らせてくれた。この頃だろうか、父が「1インチ1万円になったら買う」と言っていた14 インチの白黒テレビを買った。村に1台のテレビを観に村人が詰めかけ、シャープ兄弟のプロレス中継では、60 人ほどが家に押し掛けた。2間の和室が人でごった返し、靴や草履を無くすまいと持って座敷に上がるので、帰った後は砂や小石で畳がザラザラしていた。高校を卒業する頃には桐朋学園に短大の音楽科ができたため、進学を薦められたが進学せず、洋裁・和裁・編み物をそれぞれ習った。今着ているベストも、余り毛糸で手編みしたもの。大変温かく好き。こうしてマイペースに生活していたが、友人達の仕事着を纏って颯爽と出掛ける姿に憧れて就職を考えるも、「女が働いてはダメだ」と父の大反対にあう。父には内緒で叔父に相談し、知り合いが勤める運送会社を紹介された。父もしぶしぶ認めてくれ、姉が嫁入りするまでの1年半勤めた。

 結婚は親戚の紹介で、22 歳の時に電電公社へ勤める2歳年上の真面目な人と。父と母校が一緒で、父は母校にも顔が利くため評判を聞きに行き「成績は平凡だが真面目だし、まあいいだろう」と認めてくれた。夫は一人息子でとても大切に育てられ、2年前に父親を亡くしてからは、母親と2人で生活していた。嫁ぎ先の近所の人からは「あの姑と一緒だと大変だろう」と噂していたらしいが、お姑さんとの関係もうまくいった。干渉されすぎることもなく2人だけで生活させてくれ、生前に義父が日野に用意してくれた広い土地に家を建てて住むよう言ってくれたほどだ。結局そこには住まず、お姑さんと一緒に八王子に住み続け、日野の空地に固定資産税を60 年間払い続けた。子供は女の子2人産まれ、下の子が3歳になった時、2軒隣の市立保育園に預けようとしたが「お姑さんがいるので入園資格を満たせない」と断られた。翌年に義母が入院した事で保育園に預けることができ、子供服を作る内職に精を出した。それでも固定資産税を払うのがきつかった。次女が保育園に入園した時に園長から就職を勧められ、八王子駅前にあった日本通運に職を得ると、定年の55 歳まで20 年以上勤めた。定年を迎えてからは主人と社交ダンスや旅行を楽しんだ。外国旅行はあまり行かなかったが、国内旅行は車で四国から青森まで色々な所に行った。たいてい気心の知れた親戚3夫婦の6人で、親戚がそれぞれ所有するキャデラックとベンツに分乗し旅路を楽しんだものだ。一番楽しい思い出。

 主人は2年前に、85 歳で亡くなった。私が83 歳の時。その後しばらく一人で暮らし、八王子のデイサービスにも通っていたが、新宿と府中市に住んでいる娘たちが心配してサービス付き高齢者住宅(サ高住)を探してくれた。新宿や聖蹟桜ヶ丘のサ高住は値段が高い。調布、国分寺と探し、最後に新宿から1本で来れ、次女も住む府中が便利という事になり、昨年の11 月から今のサ高住で生活している。何が良いかって、庭の草むしりをしなくていいだけですごく気が楽になった。入居してすぐは本や新聞を静かに読み、一人で散歩に出ると何度も迷子になった。今では友達が3人でき、「春になったら東郷寺のしだれ桜を見に行こう」と誘われている。その一番年上は90 歳。膝は痛むが、まだまだ私の方が若いので頑張りたい。同じ建物で働いているケアマネジャーさんも大変優しく心強い。

 “デイサービス ももたろう” には12 月から週3日通っていて、押絵と習字、小物作りなどをしている。良い人ばかりでスッと入る事ができ、嫌な思いをする事も無い。昼食もおいしいので大変楽しみ。同じサ高住から通っている方と、朝は二人で椅子に座り、おしゃべりしながら送迎車を待つのが日課になっている。現在84 歳。一番上の姉と妹は亡くなったが、5人の兄弟は元気にしている。一番下の弟は、帰化してロサンゼルスに家を建てた。かわいいひ孫も一人できた。今まで生きてきて苦労したことも無く、いい人生を歩めた。父に反抗してまで勤めに出た事で、人間性も作られたと思う。最後にいい住まいと、楽しい居場所が見つかって、このまま“いい一生” で終われそうなのが、何より嬉しい。