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『ギター演奏と歌』の活動で女性と男性ペアが月1回来て下さっています。その女性の方が「女性は3つの“お”」が大切と教えて下さいました。①“お喋り” ②“おしゃれ” ③“お買い物” とのこと。①②はデイでできても、お買い物は一人で行けないわと言う方は、介護保険もしくは自費にてサービスができます。「3つの“お”」を大切にして、いつまでも若くいたいですね。

Shall we dance?

 生まれは、上野駅からほど近い下谷。父はそこで佃煮屋を営なみ、リヤカーを押して買い出しに行っていた。私が小学1年生の時に、5キロ程離れた北千住に店舗兼住宅を建てて引っ越し、『秋田屋』という名の乾物屋をはじめた。開店を知らせる宣伝をちんどん屋にお願いし、店の前で撮った写真が今でも残っている。兄弟は、男4人女2人。子煩悩な父は、子供たちが寝ている布団をまわっては「寒くないか?」と、一人ひとりトントン叩いてくれた。学校へも配達のついでに覗きに来てくれ、お店が休みの日には列車に乗って井之頭公園や浅草の演芸場に子供達を連れて行ってくれた。当時は字が書けない人も多い時代で、字がきれいだった父は、履歴書や賞状なのどの書き物をよく頼まれていた。体が弱く目も悪いために戦争には行かなかったが、消防の団長をしたり、出兵する兵隊さんを送り出す役を引き受けていた。戦時中『秋田屋』は食料の配給所となった。輸送中に割れた卵を使って“たまご丼ぶり” を作ってくれ、食料が不足する時代でも飢えずに生活ができた。戦争中に荒川高等女学校に進学し、1年生の時こそ勉強したが、2年生の時は防空壕を掘ったり飛行機の部品を作ったりして勉強はできなかった。東京大空襲が下町を襲い、亀戸に住んでいたおばあちゃん・叔父さん・伯母さん達が亡くなった。火の手から逃れるために隅田川へ飛び込み、そのまま行方が分からない。この空襲で10 万人が亡くなり、東京は一面焼け野原になった。私たちの家は焼けずに済んだが、父が家族を案じて一家で秋田の親戚宅へ疎開することになった。

 疎開用に茶箱20 個を用意し、家財道具はすべて送った。一家揃って東京を離れる日、駅はごった返し改札をするのに長蛇の列ができていた。父が話を付けたのか優先的に改札してもらい列車に乗った。秋田ではまず従弟の家に居候し、住宅を借りて移り住んだのだが、移り住む前に父は肺の病気であっけなく亡くなってしまった。青森にある先祖の墓へ父を埋葬するため列車で行くが、帰路の切符を買うために並ばされたため、最愛の父の納骨に立ち会う事ができなかった。今でも心残り。秋田でも石油工場を狙った空襲が度々あった。そして4年生の時に戦争が終わり、千住の家に戻ってきた。千住の家は5所帯の親戚が共同生活していて、木製の塀は燃料として全部焼かれてなくなっていた。乾物屋は畳み、親戚の人には帰ってもらった。戦後は預金封鎖のため月に下ろせる金額も決まっていたし、食料は配給だけではとても食べていけない。闇米を手に入れるべく母一人で朝一番の列車に乗り、茨城や栃木へ着物と米を交換しに通った。夜になると駅まで母を迎えに行くのだが、駅でおまわりさんにお米を何度か没収され、私も警察署に呼ばれたこともある。それでも、子供達のために何度も田舎へ通う母。私も女学校卒業後は、家計を助けるために知り合いの会社へ経理職として就職した。

 それから十数年の月日が流れ、輝きを取り戻していく街と共に、ダンスパーティーにもよく出掛け、華やかな社交の場を楽しんだ。結婚は29 歳の時に社内恋愛の末、3歳年上の人と。主人は満州鉄道の駅長を父に持つ、満州生まれ鹿児島育ちのお坊ちゃんだ。鹿児島経済大学卒の、美男子で優しい人。勤めていた会社は貿易関係の手続きやインボイスを発行する会社で、給料も良かった。独身時代に二人で府中に土地を買い、新婚生活は笹塚で始まった。独身時代の主人は銀座のバーやクラブを飲み歩いて浪費してしまうタイプだった。「女房は外で働いてはダメ」との事で仕事を辞めて家に入り、財布の紐をしっかりと預かるようになった。年子で女の子と男の子が生まれ、府中の土地に家を建て転居した。主人は、会社を辞めてイタリア製の靴やストーブを輸入する会社を興した。万が一会社が潰れ、銀行の差し押さえがあると困るので預金や保険は私の名義にし、預貯金を元手に株をはじめた。働きに出るよりもずっと実入りが良く、郵便局の保険を掛けていた関係で、年2回無料で国内旅行に連れて行って貰えたため国内の観光地はほとんど旅行した。外国旅行にもよく行き、シンガポール・韓国・中国・フランス・イタリア・イギリスや、アラスカの鉄道旅も主人と行った。主人は美食家だったので、料理教室にも通って毎日違う料理を作って振舞った。主人が好きだった中華料理は今でも一通り調理できる。12 年前に主人は83 歳で亡くなり、現在の私は長男家族との二世帯住宅に住んでいる。主人が亡くなってから毎年12 月31 日に親族11 人がプリンスホテルに集まり、新年のカウントダウンを一緒に過ごすようになった。長女家族は仕事のため正月に合流し、美味しい食べ物を食べて日帰りするが、他は3日までプールで泳いだり、ボウリングをしたりして気ままに遊んでいる。大変な時代を女手一つで育ててくれたから当然だが、“ケチだった母” とは違い、気前よくお金を出すようにしている。お金で争う事だけはしたくない。

 『デイももたろう』には10 月より週1日通っている。活動が楽しく、お昼も美味しいし、友達もできて楽しい日々を過ごしている。主人に巡り合えた幸せを噛みしめながら、この楽しい生活に「生き延びてしまいそう」。40 歳代から始めた社交ダンスを80 代後半まで続けたからか、まだまだ足腰も丈夫。姿勢も良くなるし、あなたも始めてみたら?現在92 歳。またダンスがしたい!