“デイサービスももたろう”の月刊広報誌である『活動報告』裏面に、主にデイサービスを利用されている方へインタビューを行い、その半生を記しています。戦争や仕事・家族など、その方の過ごされた時代背景や生活状況を通じ、どうして”ももたろう”を利用するようになったのかまで迫ります。

生きてるだけで、丸儲け( 前編 )

 生まれは、養蚕で知られる群馬県桐生市。実家も養蚕農家で、桑畑が広がる田舎の家に生まれた。私は3人きょうだいの長女で、下には年の離れた長男と次女。当時父はサラリーマンをしていたが、中卒から寿司屋に住み込み、板前の仕事を長くしていた。そして私が8歳の時、母に背中を押され脱サラし、寿司屋を開業した。桐生市の街中にあった寿司…(2021/03月号

樺太に生まれて ( 後編 )

 戦後、17 歳の時に引き揚げで初めて上陸した北海道にて、新しい生活が始まったー。  樺太から持ってこられた荷物は、1人につき30kg。国の政策で移住し、家も土地も失ったのに、国からの給付金は今の価値で1人10 万円程度が一度だけ。上陸後、一時的に寮での生活を送り、開拓のため家族12 人で夕張へ移り住んだ。山2個分の土…(2021/02月号

樺太に生まれて( 前編 )

 静岡県出身の父方の祖父は、屯田兵として樺太に渡った。屯田兵は、1反(300 坪)の原野を整地にすると2000 円に加え、その土地を貰うことができた。祖父は働いて働いて大きな土地を手に入れた。樺太生まれの父と母が結婚し、私や妹もみな樺太で生まれた。父は樺太にある大王製紙の製紙工場にエゾ松の木材を供給する会社を営んでいた…(2021/01月号

王道楽土 満州と共に歩んだ15 年

 生まれは北海道。厳しい両親のもと、上に兄を持つ長女として生まれた。公務員の父は、日本からの転勤で満州・ハルピンへ赴任する事になり、両親と兄と私の4人で満州へ渡った。私が3歳の頃で、満州国が建国された頃の事だと思う。満州で弟と妹が5人生まれ、兄弟は7人になった。満州の街は綺麗でデパートもあり、まるで有楽町と銀座がそのま…(2020/12月号

六十年間、ただひたすらに

 生まれは愛知県豊橋市。両親は農業を営んでいて、広い家に畑が続き、海までは自転車で30 分。子供の頃はよく海岸へ遊びに行った。私は9人兄弟の末娘で、上から3人が兄、次の5人が姉。小さい頃から5人の姉と共に農家や家事の手伝いをしていた。母は良く働き、歌ったり踊ったり楽しい人で、人を楽しませることが大好きだった。戦争中、一…(2020/11月号

それは、丁寧に生きること

 生まれは、伊予柑の産地で知られる愛媛県伊予市。伊予は松山駅より電車で10 分、瀬戸内海沿いの街。温暖で日当たりのよい山間部で育った伊予柑は「おいしおまっせ!」。父は沿岸の藻に棲む魚やカニを採る漁師で、母は父から大久保彦左衛門と称される事もあった、やさしく強い専業主婦。私が5人兄弟で一番上の長女。下に妹3人と弟1人。母…(2020/10月号

大連に咲く、あの花のように

 生まれは神戸。私が長女で、5歳違いの妹と、その下に弟2人の4兄弟。私は昔からお喋りが苦手で自分からは話さない、のほほんとした性格。母は働き者で、大変な時でもいつも笑顔だった。父は若い頃から腹膜炎を患い、寝込んでいることが多かった。そのため殆ど仕事はできず、私が10歳の時に亡くなった。小学校を卒業し、このままでは子守に…(2020/08月号

アコーディオンと共に【スタッフ編】

 上に兄二人の長女として、川崎市生田で生まれた。その後、町田の団地を経て多摩市、現在は稲城市に住んでいる。体は大きいが、小さい頃は泣き虫で、言いたい事も言えないタイプだった。介護の仕事は『ももたろう』が初挑戦で、それまで30 年間ずっと飲食関連。学生の頃ファミレスでのアルバイトから始まり、新卒で某高級ホテルのレストラン…(2020/07月号

第3 の人生は、誰も知らない地で

 生まれも育ちも京都だが、京都はあまり好きではない。私の祖父である母の父親は、キリスト教思想家である内村鑑三の弟。親族関係のもつれで、母がお腹の中に居る時から祖父は単身でアメリカへ渡り、母が祖父と初めて逢ったのは12 歳の時だという。それまで姉を含めた親子三人での生活だったそうで、我慢強い母だ。母は大学教授の父と結婚し…(2020/06月号

厳しさは、優しさを育み

 生まれは、北区東十条。兄1人、姉1人、弟1人の4人兄弟の次女。父は酒販組合の支部長職に専念していたため、自宅併設の酒店は専ら母と子供達で店番し、配達はしなかった。東十条駅を下りたあたりに地所を持ち、アパートや店舗を貸していたためお金に不自由はしなかった。戦争が始まると、私は群馬県の渋川に学童疎開した。渋川にあるいくつ…(2020/05月号

幸せは、日常の中に

 生まれは静岡県下田。7人兄弟で、上に姉を5人持つ6女として生まれた。私の2つ下に長男の弟。父と母は、共に小学校の先生で、同じ職場で知り合った。父は40歳前に校長先生になったが、結核のため42歳で亡くなった。その時母は39歳、私はまだ6歳だったため、父の思い出はほとんど無い。写真で見る限り、背が高くてスタイルもよい好男…(2020/04月号

安らげる場所へ

 生まれは大阪市内の四天王寺の近く、今では近くに『あべのハルカス』が建つ場所。聖徳太子が作った大きなお寺で、小さい頃からよくお散歩へ行っていた。私は兄と妹を持つ長女で、両親は私達をすごく可愛がってくれた。昔から引っ込み思案で、誰かから喋り掛けられれば喋るが、自分からはあまり話さない性格。小学校は四天王寺の中に分校があり…(2020/03月号

金は天下の回り物

 代田橋駅直ぐの杉並区和泉で、姉2 人・兄2 人を持つ末っ子として育つ。甲州街道・環状七号線沿いに大きな土地があり、敷地の一部で父がガソリンスタンドとビリヤード場を経営していた。ビリヤード場は近くの明大学生や俳優・画家が主なお客様。ガソリンスタンドのお客様は、名のある老舗経営者の運転手付き高級車が多かった。敷地には他に…(2020/02月号

食が繋ぐ、人と人

 生まれは、『北上夜曲』の舞台になった岩手県北上市。高校時代には全てのノートの最後ページに『北上夜曲』の歌詞を書き、休み時間になるといつもみんなで歌っていた。今でも懐かしい、思い出の曲。兄弟は6人。私は一番上の長女で、次の次女は5 歳離れている。もともと父は東北電力の変電所に勤めていたが、戦争が始まる数年前、市内に国産…(2020/01月号

貴族の嗜み

 生まれは、館山の別荘。その別荘は海に近く、2000 坪の敷地には松林と、いくつかの建物が点在していた。兄弟は5人。私は2番目の次男で、一番下の弟は小さい頃病気で亡くなったため、男は二人。代々続く公家(くげ)一族で、天皇や朝廷に仕えていた。一族の何人かは天皇家との縁戚関係を結んでいる。父は宮内省の文部官で、賞状や文書を…(2019/11月号

本物は 使い込むほど 手に馴染み

 生まれは長崎県の佐世保。兄弟は4 人で、2番目の長女として生まれる。母は専業主婦、父は中学校の英語教師だった。戦争中は英語の授業が出来ず、父は保険会社に勤めていた。佐世保は海軍の街で、よく海兵服姿の海兵さん達が7 ~ 8 人で歩いていて、子供たちが付いて行くとビスケットをくれた。私も欲しかったが、要領が悪かったのか貰…(2019/10月号

たくさん働き、たくさん遊び

 私は83歳。生まれは群馬県沼田市。沼田駅は尾瀬国立公園への玄関口として知られている。父は国鉄マン、母は同居していた祖父母の手伝いで八百屋の店番を主にしていた。みんな優しく、怒られた記憶はない。私が5人兄弟の一番上で、弟3人、妹1人。一番下の妹は私が高校1年生の時に産まれた。小学校低学年の頃に終戦を迎え、空襲も無かった…(2019/09月号

出会いもまた運命

 生まれも育ちも北海道。父が転勤族のため道内を転々としたが、函館よりバスで1 時間の『尻岸内』で幼少期を過ごす。海沿いの小さな集落だが、ここは大変な田舎だった。バスは1 日2 本だけだったので、バスが珍しく「バスが来たよー」と、近所の子達がバスの後を追いかけては排気ガスの臭いを嗅いでいた。排気ガスの香りで都会の生活に思…(2019/08月号

大切な人

 生まれは、千葉県船橋市。母に体質が似たのか、若い時から「風が吹いたら飛ばされそう」とよく言われた。父母と3人、幼少の頃に千駄ヶ谷の一軒家へ越したが、母は虚弱から入院がちになり、父とお手伝いさんの3人で生活していた。戦争が始まり、いよいよ戦争末期になると父は内地へ出兵することになり、その間、私は新宿・淀橋区に住む親戚に…(2019/06月号

南の島を想う時

 生まれは杉並区和泉町、最寄り駅は代田橋。東京生まれ、東京育ち。兄弟は4人、姉・兄・私・弟で、92 歳の姉と、87 歳の私が残った。父は警視庁に勤める警察官で、家にはあまり居なかった。全てに厳しい人だったが、辛いということもなく家族は円満だった。戦争中は父の実家がある福島に、弟と疎開した時期もあったが、大変な思いをした…(2019/05月号

明日は明日の風が吹く

 生まれは東京都中野区。父は石材屋に勤める職人で、職人気質の厳しい人だった。母は専業主婦で、私は2歳上に姉を持つ次女。大体2年おきに妹や弟が産まれ、5人目で最後と思ったのか、両親はその子を『スエコ』と名付けた。戦争が始まると父は兵隊に行ったため、父の実家である埼玉に一家で疎開した。姉が小学校3年生、私は1年生の時だった…(2019/04月号

一人は、孤独か

 生まれは東京淀橋区戸塚、今の新宿区。「男っぽい」とよく言われるのは、4人兄弟のうち、上3人が兄だからだろうか。小学校卒業後、東洋高等女学校に進学した。当時「女の子は早く結婚し、子供を産むべき」という風潮があり、親から和裁と洋裁を習わされた。当時から社会に出て仕事がしたかった私は、親の目を盗み内緒で和文タイプライターを…(2019/03月号

親の背中を見て育ち

 父は日本の大学を出て、満州で国家公務員として税関の仕事をこなし、シナ語も出来た。母は、幼少のとき、満州で成功していた親戚のところへ養女として満州に渡り、満州で女学校に通ったそうだ。父と母は満州で出会い、結婚。私は3人姉妹の長女として満州で生まれた。鉄骨3階建の国家公務員官舎に住み、ほぼ日本人が通う国民小学校に通ってい…(2018/11月号

光の射す方へ

 7月のある日、私の古い友人から電話がありました。彼女のお孫さんにあたる中学2年生の女子生徒、Sちゃんに8月の3日間、夏休みを利用して職場体験をさせて欲しいとのお願いでした。快諾して話を訊くと、小学校へは普通に通えていたS ちゃんでしたが、中学校に進学して暫くすると不登校になり、1年生は半分しか学校へ行けなかったそう。…(2018/09月号

上を向いて歩こ

 私は石見銀山がある、自然豊かな島根県太田市に生まれた。家から海が近く、小さい頃から日本海へよく泳ぎに行った。綺麗な砂浜や貝の採れる岩場、飛び込み台もあってそこから跳んでは海岸べりまで泳いで遊んだ。8人兄弟の上から3人目。兄弟は男4人に女4人。父は製材所に勤め、刃物の管理をしていた。母は専業主婦で、祖母も含め11人の明…(2018/07月号

誰のために働き、誰のために生きるのか

 生まれは神奈川県の三浦半島。8人兄弟の7番目で大家族だったが、現在は2人しか残っていない。父親は駐在所勤務のお巡りさんだったため、神奈川県内の駐在所を毎年のように異動した。駐在所へは家族全員で移り住んでいたため、私も小学生時代の6年間で5校も変わった。小学校1年生の時は、1学期だけ通って転校し、それ以降も転校を繰り返…(2018/06月号

誰かを想い、誰かのために

 生まれは茨城県鹿島郡波崎町。鹿島灘と利根川に挟まれた半島状の細長い地形で、利根川に面する専業農家に生まれた。7 人兄弟の2 番目、現在83 歳。近所に海軍航空隊の養成基地があり、海軍に下宿先を提供する家庭が多くあった。わが家も私が幼い頃から、海軍の軍人さん10 名程がいつも下宿していた。家が大きかったので、母屋を下宿…(2018/05月号

「ありがとう」の言葉に乗せて

 「ありがとう」この言葉が大好き。兄弟にも親にも周りの人達にも、口癖のように言っていた。八百屋さんに「ありがとう」と言うと「どうもー」と、嬉しそうに笑顔で応えてくれる。それを見るとこちらも嬉しい。  生まれは、東京の市ヶ谷。皇居外堀のすぐ近くに自宅があり、父はトラックの運送業を経営していて十数台のトラックを所有していた…(2018/04月号

別れと苦労の先に

 私は三重県の小さな漁師町、須賀利町で生まれた。半島の湾にある小さな集落の家で、8 人兄弟の末っ子として生まれた。現在90 歳。若くして戦死した兄もいて、私以外の兄弟は全員亡くなった。しかし一番初めに亡くなったのは母だった。母は私が2 歳の時に病気で亡くなった。だから、“おかあさん”の優しさに触れたことは無い。母の代わ…(2018/03月号

口は幸せの元

 朝、バイタルチェックの時「情熱いっぱいなのに、熱が上がらないのね」お弁当箱の洗い物をお願いすると「仕事があって良かった。失業するかと心配していた」トイレにお誘いすると「私の蛇口を開けてこようかな」お迎えの車に乗り込むと「さあ、このまま箱根へ行きましょう」と周囲が笑いの渦に。この方の良さは、決して他人の悪口や陰口を言わ…(2018/02月号

病床の母、添い遂げた父

 生まれは静岡県静岡市。富士山が良く見える海沿いの地で、鉄工所を営む父と母の元に産まれた。戦時中は母の実家が大きな茶畑を持つ農家で、山の中腹にある大きな家に身を寄せた。母は稀に見る背の高い人だったが、7人子どもを産んだからか体が弱く、寝て過ごす日々が多かった。そのため父は母の看病に追われ、姉と私がおかゆを作り、弟妹の世…(2018/01月号

堅実に、根を深く

 私は東京荻窪で長女として生まれた。専業主婦の母は浅草生まれのシャキシャキした性格で、父は建築業で福井出身。物静かだが堅実な人で、荻窪の他にも土地を持っていた。10歳年の離れた次女と、その下に妹と弟がいる。戦争が激しくなった小学5年生の時、生まれたばかりの次女を連れて、福井にある父の実家に疎開した。よく疎開先でいじめら…(2017/11月号

父の言葉、兄の面影

 私は岩手県に5 人兄弟の3 女として産まれ、つい5 年前まで岩手に居た。岩手県は歴代の総理大臣を5人も輩出した地であり、勉強熱心な人が多いのかもしれない。私の父は、26歳の若さで小学校の校長先生になった、やさしい人。母も教師で、いつも背広とスカートを穿いて学校へ出かけていった。共働きの家庭だった為、お手伝いさんが2~…(2017/09月号

波立つ海のように

 私はモッポという朝鮮半島南端にほど近い街で、7 人兄弟の長女として生まれた。両親は彫刻師の伯父さんを頼って朝鮮へ渡り、家具の制作販売の会社を立ち上げていた。父は手が器用で、後に『うどん作り日本一』にもなった人。父の作る家具は大変評判が良く、財をなした。三階建ての家を建て、一家で何不自由なく暮らしていた。大戦の真っただ…(2017/08月号

姉として、母として

 私は東京下町の深川で、長女として生まれた。母は綺麗で優しく、人に尽くす人だった。本当の父は幼い頃に離別したため、何も記憶に無い。いとこが「おじさんが来ている」と声を掛けてくれ、あまり知らない男性と食事した事が何度かある。きっとそれが父だったのだろう。  私が13 歳の時に、母は再婚した。義理の父は鉄骨関係の建築業をや…(2017/07月号

七転び八起き

 私は山梨県忍野村に3 人の兄を持つ、4 人兄弟の長女として生まれた。村の中心部に家があり、大きな畑もある裕福な家庭だった。母方の実家からは5期も村長を輩出し、他の親戚も何人か村会議員を務める「お大臣」だった。母は頑固で芯の強い人だったが、対照的に父は遊び人だった。支那へ出兵した際にも現地に“お妾さん” を作ったほどで…(2017/06月号

紡ぎ、織り、仕立て、

 生まれは、山口県徳山市新地。現在は合併して周南市になった。安倍首相の実家がすぐ近くにあった。徳山といえば重工業が盛んで、徳山セメント、徳山曹達、キリンビール等の大きな工場があった。海に近いので魚が美味しいし、みかん・干し柿が有名な町だ。子供の頃は徳山曹達に開放プールがあり、よく泳ぎに行った。戦争が始まると、徳山曹達は…(2017/05月号

親の心子知らず、子の心親知らず

 2人の息子は、ここ4 ~ 5 年毎週欠かさず、土曜日の昼食を一緒に食べに府中に来てくれる。食べたらすぐに帰ってしまうが、週末のほっとする時間だ。仕事が忙しいのに、“デイサービスももたろう” のクリスマス会や作品展にもよく顔を出してくれている。息子達は、1 年以上前からこの昼食会でも“安心して過ごせる場所” として、ホ…(2017/04月号

家族の、かたち

 「お父さんいる?」二人の娘が我が家に来ると、決まって発する言葉だ。娘も早50 代なのに「お父さん、お父さん」と、子煩悩で優しい主人を慕っている。私は熊本県天草市で生まれ、四人兄弟の末っ子として大切に育てられた。実家は大きな農家で、収穫期には何人も人を雇っていた。  高校2 年生の時、一回り大きい姉に呼ばれて上京。東京…(2017/03月号

情けは人の為ならず

 私は今で言う大阪市北区に、兄1人・姉2人の4人兄弟の末っ子として生まれた。父は小学校の教師で、堅実真面目な人だった。母は自宅で助産院を経営し、毎日のように元気な新生児の泣き声が聞こえてきた。明るく笑顔の絶えない家庭に育ち、私も楽しいことが好き、いちいち悩まない性格。母の口癖は「情けは人の為ならず。孫子の末までお返りが…(2017/02月号

士族の生き方

 私は墨田区向島で士族の長女として、父が45 歳、母が20 歳の時に生まれた。実家は代々呉服屋を営んでいたが、士族の商法で上手くいかず、私が生まれた頃には洋服屋になっていた。父は麻雀店や玉突きのホールなども経営し、幼い頃は客に紛れて遊んでいた記憶がある。私が引込思案で無口だったためか、5 歳から日本舞踊の先生を家に呼ん…(2017/01月号

頑張ったからこそ、今がある

 私は、九州の宮崎県で生まれた。小学4 年生の頃に何度か空襲にあったが、大きな被害にはならず疎開もしなかった。もっとも被害にあったのは、戦後に上陸した大型台風が直撃した時だった。合掌作りの屋根が強風に煽られて飛んでしまった。仕方なく屋根の無い家の中に、10 畳ぐらいの小屋を作り、家族4人で1年間不自由な生活をした。20…(2016/12月号

明日が平和であるために

 両親は沖縄出身で「上等、上等」が口癖の、おおらかだが芯の強い人だった。私は東京都杉並区で、三兄弟の長女として生まれた。父は鉄道省の職員だった為、満鉄へ転属を誘われていたそうだが、東京に残って仕事をしていた。独学で英語の勉強を続けていた、勤勉な人だった。  思い出すのも嫌だが、女学校在学中に東京大空襲を経験した。大空襲…(2016/11月号

“幸せすぎる” 人生とは

 千葉県安房郡岩井海岸の傍で5人兄弟の末っ子として生まれた。岩井海岸といえば、東京の学校が所有する林間施設や、会社の保養所も多くある、風光明媚で過ごしやすい所だ。実家は父が大工の棟梁で、母は養護学校に監督として勤めていた。父の仕事場は岩井の町の中心部にあり、自宅は海岸の傍。自宅の坂を下るとすぐに浜がある。漁師からよく「…(2016/10月号

「振り返ると、良い人生だった」

 88 歳の時に自宅の玄関先で転び、大腿骨頚部を骨折した。府中病院で手術を行い、リハビリの為に慈恵医大病院に転院。息子から「ちゃんと歩けるようになって帰っていらっしゃい」と激励された。翌日、リハビリのスタッフが「○○さんはもう歳だから、そんなにリハビリを頑張らないで、杖を使って歩けるようになればいい」という会話が聞こえ…(2016/09月号

セピアの向こう

 「ママ、辞めるんじゃないよ。皆に合わせてちゃんとやってるの?」同居の娘に毎回言われる言葉だ。今まで数件のデイサービスを利用したが、長くは続かず「やっぱり辞めたい」と言って辞めていた。送り出す娘としては気が気でないのだろう。「あそこは気に入ったのよ」と言うと、「珍しいね」と一応納得してくれている。“ももたろう” は見学…(2016/05月号

日の丸弁当

 戦時中の女学校生活。お昼の弁当は、白米に梅干1つだけの“日の丸弁当” と決められていた。先生が昼ご飯中見回りに来て、梅干以外の具が入っていると、直ぐに取り上げられた。実際、ご飯の下に見えないように母が入れてくれたおかずは、匂いでわかったのか取り上げられたこともあった。その時は、下校まで食べる事を許されず、家に持ち帰っ…(2016/04月号

自由気ままに生きるには

 「今日は何を食べようかしら?」毎日の夕食に心を煩わせる。一昨年ぐらいから自宅で調理するのが億劫になり、家では作らなくなった。今は運動も兼ね、毎日の夕食と、時には昼食も外へ食べに行っている。若いころは79kg もあり、15 号の服を着ていたのが嘘のよう。今は41kgしかなく、周りからも食べるように勧められている。昔と違…(2016/02月号

本と共に

 実家は農家で、静岡県の富士山の見える場所だった。小さいころに火事で実家を失い、母を亡くした。同時期に父親とも連絡が取れなくなり、養女に出された。養母を母だと思って育ったが、非常に厳しい人だった。養父母は他に何人も養子をとっており、大家族で生活していた。小学校低学年の頃は、小守がてら赤子をおぶって学校に通った。教室で泣…(2015/12月号

奉天に想いを馳せて

 現在92 歳。生まれは九州、鹿児島。父が卸業をしていた関係で、5 歳の時に一家で奉天に移り住んだ。奉天は満州第2の都市で、日本人も沢山居住している大きな商業都市だった。奉天市役所、満鉄、奉天製作所等の立派な建物、デパートなどのビルが立ち並ぶ広い道路には、路面電車も走り、皆帽子を被ってさっそうと歩いていた。立派な劇場が…(2015/11月号

灯りを、つくる

 生まれは、東京・恵比寿。当時の自宅は恵比寿通りにあり、父親が電気ランプの傘を作る工場を経営し、従業員も何名か出入りしていた。私達家族は工場の2 階を住居にして生活していた。戦争が始まると、ランプ傘では生活できず、父は軍需関連の仕事を始めた。工場を転用し、火薬を入れる筒を作っていたが、戦争が終わると、またランプの傘を作…(2015/09月号

理系教授のアダージョ

 3男5女の大家族。私は7番目で、2歳年下の妹がいた。静岡県から池袋に移り住み、私が小学 1 年生の時、今で言う胃がんで父が急死した。一番上の姉が成人間近だったので、すぐ仕事に就き、収入をいささか入れて生活を支えてくれた。勉強は一つのテーブルを交代制で使い、兄3人は妹たちの勉強をよく見てくれた。母は呉服店の和服仕立てを…(2015/06月号

ハロッズでも大阪弁

 私は大阪生まれ、奈良育ち。奈良の女学校を卒業するまでは、寮での共同生活が続いた。戦時中だったため、最初の2年ほどは授業もしていたが、その後は先生も出兵するようになり、殆ど授業はできなかった。体育館のような大きな場所で正座をし、薄い座布団に座って、毎日毎日兵隊さんの小物を1日中縫っていた。他にも千人針を近所の女性に頼み…(2015/05月号

満州に咲く

 私は満州の大連で生まれ、終戦後に引き揚げ船で帰国した。大連へは父が満州鉄道の技術者として赴任し、一家で移住していた。鉄筋三階建ての社宅に住んでいて、そこは水道や電気、ガスが完備されており、当時としては快適な建物だ。ただ冬は寒く、トイレはすぐに氷が張り、使う度にお湯で氷を溶かしていた。幼かったため、あまり記憶はないもの…(2015/04月号

声なき日記と、過ごす日々

 結婚は25歳の時。当時の女性としては決して早い方ではなく、むしろ遅い結婚であった。8人兄弟の長女だったので、親からも「早く早く」とせかされていた。私には意中の人がいたが、親は財産や不動産を持っていない人との結婚を許さなかった。ある時、実家の裏の家で行われた葬儀で、「あの人はどうか」と紹介されたのが主人だった。建築業を…(2015/03月号

中近東に魅せられて

 主人とは名古屋の会社で知り合った。主人の会社はトヨタのため、名古屋と東京を行ったり来たり転勤が何度もあった。結婚後に親戚から「住んでもいいよ」と、東京の一軒家を5年間借りて住んだ。そこは本当の“成城” で、斜め前には三船敏郎の家があり、隣は有名な作家の家、そしてその隣は満鉄のトップの家。どのお宅もお手伝いさんが出入り…(2015/02月号

幸せを取り戻すために

 5 年前の3 月早朝、大阪に住む甥の結婚式に持参するための祝い袋を、近所のコンビニへ買いに行った。その帰り途、家の近くにある五差路交差点の横断歩道を歩いていた。当時は信号が1つしか付いていない、事故が度々起こる交差点だった。会社や学校に向かう若い人たちと一緒に、私も青信号の最後に渡った。――次にある記憶は、真っ白い天…(2014/12月号

諦めない。

 火・水曜日の『押絵』は、小さな布をハサミで切り、ボンドを塗ってウレタンで包み、出来たパーツを幾つも組み合わせて、ようやく作品に仕上がります。大変細かな作業が求められ、皆さま本当に集中して取り組まれている活動です。その中に、お一人だけ左手用のハサミを使う方がおられます。このお方は現在90 歳の女性。左利きかというと、そ…(2014/11月号

人生、我慢と笑顔

 私は北海道函館に生まれ、父はある衆議院議員の秘書をしていた。なに不自由なく生活していたある日、父は冷たい海に飛び込んで、自殺した。享年47歳、私が小学校1年生位の頃だ。理由は、先の議員が起こした失態の責任をとるため。その時から、私の人生は大きく変わり始めた。父の代わりに兄が働きに出、私は姉のところに預けられ、慣れない…(2014/10月号

人生、順風満帆

 私は今89 歳。米寿の記念にと、同居する息子夫婦が新しく出来た歌舞伎座に連れて行ってくれました。大変心に残るお祝いでした。  生まれは北海道小樽。運河の街、ガラスの街、にしん御殿で有名な街。生家は海産物の卸問屋でした。デイに新しい方が入ると「この方とお話をして下さい」と、必ずお願いされます。やはり生家がお店をしていた…(2014/09月号

笑う門には福来たる

♪♪若~かい わぁかい まだ若い 幾つになっても まだ若い   ひょっとして迎えにきたならば 後から行くよと云いなさい … ♪♪ 「あらぁ、お母さん。ご機嫌に鼻歌なんて歌って…、又お酒飲んだでしょ!」  一緒に住んでいる娘(53歳)が顔をしかめます。妻はスーパーやコンビニで、自らワンカップや缶ビール買い求め、外で飲んで…(2014/08月号

転んだのなら、立てばいい

 現在85 歳のM 様は、" ももたろう” を2 番目に長くご利用下さっている方で、大変明るく、ムードメーカー的存在。生れは横浜。16 歳の時に終戦を迎え、駐留している黒人兵士とも仲良くなるほど社交的な方。辛い経験も沢山しておられるが、常に前向きで笑顔を絶やさない。それでいて、人の事を決して悪く言わず、ご自分の昔話を面…(2014/07月号

愛する事、護る事

 ももたろうの数少ない男性である、О様は現在73 歳。  鳥取県の農村出身で、夏は海、冬は雪山でスキーを楽しみながら気ままに育った。高校卒業後、1年ほど地元農協に勤めていたが、元軍人(満州関東軍騎兵隊士官)で十人兄弟の長男の勧めもあり、京都の陸自を経て山口県防府の航空自衛隊に入隊。この頃に奥様とも出会われる。パイロット…(2014/05月号

平和で安心した暮らしが、一番の幸せ

 私は、今82歳。旧制女学校最後の卒業生。父母、そして夫は沖縄出身ですが、私は東京で生まれ育ちました。父は国鉄職員で空手が趣味。妹も柔道をしていて、アメリカ人と結婚し、現在ユタ州に住んでいます。体育会系の家族ですが、私は運動音痴で特に何もできません。  3月10日の東京大空襲は、遠くの方で赤く燃えるような景色が目に残っ…(2014/04月号

38度線を越えて

 私が生まれたのは、北朝鮮。北朝鮮出身と言うと、「え!?」と驚く人も多いが、父は茨城県水戸市に現在も「日本農業実践学園」として残る農業学校から、農業指導者として朝鮮に派遣されていた。背が高く、ハンサムで立派な人。母は山形県米沢市の出身で、「ミス米沢」になったほどの美人。どことなく私に似ている。  朝鮮では30,000 …(2014/02月号

目標、115 歳。

 父は青森、秋田で裁判官として勤め、その後朝鮮総督府裁判所高等法院へ裁判官として転任。私は、大正3年11月、6人兄弟の末っ子として転任先の朝鮮で生まれた。19歳まで釜山にある馬山公立高等女学校へ通い、卒業後帰国した。大学は日本女子大学国文科に入学した。2年生の時、肺結核の初期症状である肺尖カタルに罹る。東大医学部卒の姉…(2013/11月号

ヒカリを失ってなお、輝き続ける

 私は広島県で生まれ育った。父は醤油づくりの杜氏でやさしい人、母は賢くて強くやさしい人だった。私は 4 人兄弟 2 番目の長女として生まれ、小学校から帰ってくると、かまどにくべる杉の小枝を拾いに、籠を背負って友達と山にでかけるのが日課だった。  十代半ばで田舎から兄と一緒に呉へ越してきた。兄は海軍工廠で働き、私は軍関連…(2013/06月号

ももたろうは、最後の檜舞台

 「おはようございます!」 朝起きると一番にベランダのガラス戸を開け、お天道様にパンパンと二拍手。皆様の安寧を祈りつつ、嗚呼!今日も“ももたろう”で楽しい一日が始まる!!  私、辻郷待子(たいこ)は、早いもので、“ももたろう” のスタッフとして通うようになって1ヶ月が過ぎました。きっかけは、“ドッグ・セラピー” のボラ…(2013/05月号

一度あきらめかけた命、 夢に向かって楽しく生きていきたい。

 81 歳の私が生まれたのは、昭和 6 年の夏。この年に満州事変があり、小学校に通い始めた昭和 13 年には支那事変が始まる。  私たちは何かと「戦争の大事な申し子だから、何事も一生懸命にやりましょう」と校長先生やお偉いさんから耳にたこができるほど言われたが、この時は意味がわからなかった。今になって、戦争になくてはなら…(2013/04月号